2011年2月21日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」9章1~27節 

   
自分の自由を放棄したパウロ 9章1~27節
  
9章でパウロは、偶像に捧げられた肉に関する問題をひとまず「棚上げ」しているように見えます。
しかし、彼はこの問題に10章で立ち戻ります。
それゆえ、9章の内容は前後の文脈を考慮に入れて理解していくべきです。
パウロは自分自身のことを例に挙げて、クリスチャンは自ら進んで自分の権利と自由を放棄するものであることを説明しています。
パウロにはコリントの教会から自分の生活費をもらう権利が確実にあったはずです。
誰も自費で戦争に従軍したりはしないし、誰も自分で植えたぶどう園の収穫の分け前をとらなかったりはしないものです。
神様の律法もそのように定めています。
ここでパウロは、主の使徒として大胆な聖書の説明を行っています。
それによれば、「御言葉の奉仕者(説教者)は、教会から生活費を得なければならない」という原則を利用せずに放棄するのが一番よいのです。
パウロはコリントの教会から生活費を受ける権利が疑いもなくあったにもかかわらず、この権利を彼はいかなる場合であれ利用しなかったし、後でも利用しようとはしませんでした。
それは彼の「誇り」だったのです。
そして、コリントの信徒たちがこの誇りを彼から奪うことを、彼は許しませんでした。
福音伝道の障害にならないように、使徒パウロは、むしろ自分の手で働いて生活費をまかなう道を選びました。
このようにパウロは何ものにも依存していない自分を自発的に「すべてに依存する者」としたのでした。
 
彼は自分をモーセの律法の下にある者とは位置づけてはいませんでしたが、ユダヤ人と会った場合には、自分自身をモーセの律法の規定の下におきました。
異邦人と一緒にいるときには、彼は神様の律法を気にかけずに生活していました。
こうした態度をとる目的はただひとつ、福音伝道に障害をもちこまないようにする、ということにありました。
パウロの活動の背景にあったのは、すべての人の救いに関する危惧でした。
この危惧のゆえに、パウロは自分自身とその自由を犠牲にする用意ができていました。
「ちょうどスポーツ選手が練習するように、コリントの信徒たちも私を見習って訓練を積みなさい」、とパウロは助言しています。
クリスチャンは、自分がたとえどれほど自由だったとしても、他の人たちのことを考慮に入れて、自分自身のことは彼らの「僕」の立場に置き続けなければなりません。
ここでは、勝利の栄冠を夢見ているトップレヴェルのスポーツ選手と同じような規律遵守の姿勢が要求されます。
スポーツ選手の目標は、やがては枯れる月桂冠です。
キリストは、「御自分のものたち」に、彼らがこの世の人生の歩みを終えてキリストの御許に行くとき、決して枯れることがない冠を与えてくださいます。
しかし、この勝利は自明のことではありません。
まさにそのゆえに、コリントの信徒たちは自分たちの自由を捨てて、信仰の鍛錬に身を入れるべきなのです。
  
この箇所のポイントは、まさにマルティン・ルターが「キリスト者の自由」という書物の中で次のように語っていることです、「クリスチャンは皆を支配し、誰の支配下にもいない自由な主人です。また、クリスチャンは皆の僕であり、各人の支配下にあります」。
これらふたつの対照的な命題を私たちクリスチャンは各々自分の人生の中で実行していかなければなりません。
一方でクリスチャンは神様が解放してくださった存在であり、すべてについて神様の御前でひとり責任を負っています。
クリスチャンは誰のことも一切考慮する必要がありません。
しかし他方でクリスチャンは自ら進んで自分を皆の僕とします。
キリストが御自分を低めて奴隷となられたように、クリスチャンも自分自身を低めて他の人たちに仕えるようになります。
このことを「キリストのもの」であるクリスチャンは知っておかなくてはなりません。
しかし、はたして私たちはこういうことを身につけることができているのでしょうか。