2011年2月18日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」8章1~13節 

    
知識、それとも、愛? 8章1~13節
   
あるコリントの信徒たちは問題を神学的にまるごといっぺんに扱おうとして、状況を悪化させました。
彼らは次のように考えたのです、
「偶像はそもそも存在しない。偶像などは存在しないのだから、偶像に犠牲を捧げるのはまったく無意味な行為だ。
偶像への犠牲を捧げることが無意味なのだから、上等な肉が犠牲の儀式によって何か他のものに変わる、などということもありえない。
そういうわけで、たとえどのような悪魔に肉が捧げられたのだとしても、偶像などは存在しないということさえわきまえていれば、誰でもその肉を食べてかまわないのだ」。
こうした神学的な考え方の中に、パウロは多くの利点を見出していますが、一方ではまた、難点も指摘しています。
「偶像が存在しないというのは本当です」、とパウロは言います。
活きておられる主であり全世界の造り主なる唯一の神様だけが存在しておられるからです。
他のものはすべて「名目上の神々」です。
それらが神扱いされるのは、人間たちがそれらを「神」に祭り上げて、自主的に崇拝しているからです。
そのような「偶像」はうんざりするほどあります。
しかし、唯一の主のみが存在しておられるのであり、この方こそが、人間が何と言おうとも、まことの主なのです。
この意味で、前述のコリントの信徒たちは正しいのです。
すなわち、偶像などはなんでもなく、偶像に犠牲を捧げることもなんでもありません。
しかしながら、これで真理のすべて、というわけではありません。
なぜなら、キリスト教の「知識」はたんなる頭の知識だけではないからです。
クリスチャンは皆、他の人たちのことも考慮に入れて行動しなければなりません。
コリントの信徒たちはこのことをすっかり忘れてしまっていました。
彼らには正しい「知識」がありました。
しかし、この「知識」は彼らを驕り高ぶらせました。
それゆえパウロは、「何かを知っていると思い込んでいる者には、実はまだ正しい知識がないのです」、と彼らに警告しています。
  
前述のコリントの信徒たちは、彼らと共に生活している他のクリスチャンたちのことを根本的に忘れ去っていました。
クリスチャンAの目には、他のクリスチャンBが偶像礼拝に自ら進んで参加しているように見えたのです。
クリスチャンAにとっては、クリスチャンBのように偶像礼拝に参加することは、とても考えられないことでした。
このようにおぞましいことを目の当たりにして、怒る人があらわれ、諍いが起こりました。
クリスチャンの中には、偶像に捧げられた肉を食べてもよいとする「立派な理屈」を、その意味をちゃんと理解しないまま、己の良心の声を無視して偶像礼拝へ参加する口実として利用する人が出てきました。
「食べ物は私たちを神様に近づけもしないし、逆に遠ざけもしない」、ということをパウロはよく知っています。
それに対して、次のようなケースもあります。
あるクリスチャンAが、ある聖書的な根拠に基づいて、ある行動をとるとします。
他のあるクリスチャンBは、クリスチャンAのそのような行動の根拠を理解しないし、それを「偶像礼拝」であるとみなしています。
ところが、誰から強制されているわけでもないのに、クリスチャンBもまた、クリスチャンAと同じような行動をとるようになってしまう、というケースです。
そうした理由からパウロは、「もしも自らの行動(ここでは偶像に捧げられた肉を食べること)のせいで、他のクリスチャンがキリストから離れ去って罪の生活を送るようになる恐れがある場合には、自分のもっている「自由と知識」をあえて放棄して、肉を食べることを自らに禁じることにする」、と言い切ったのでした。
  
私たち現代人はパウロのこうした言葉から学ぶべきことが多くあります。
私たちは信仰に関わることがらを個人的なこととみなすのに慣れています。
「私たちがあることをするかしないかは、他の誰にもかかわりがないことだ」、と考えるのです。
これはある程度はまったく正しいことです。
私たちは皆、自分自身の生活について、神様に対して直接に責任を負っています。
にもかかわらず、クリスチャンとしての愛は、私たちが他の人たちのことを考慮に入れて行動することを要求します。
これは幅広く応用されるべき態度であり、それを実行に移そうとする時に、私たちはいろいろと難しい局面に遭遇することになるでしょう。
クリスチャンは完全主義者でなければならないのでしょうか。
クリスチャンはダンスをしてもよいのでしょうか。
何が「八方美人」的な振る舞いで、何がこの章の教えに本当に従うことなのでしょうか。
  

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