2011年2月24日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」10章1~13節 

    
警告の実例としてのイスラエル 10章1~13節
  
「新しい契約の民」(クリスチャン)は、「旧い契約の民」(イスラエルの民)の歩みと誤りとを正確に把握しておかなければなりません。
パウロは、神様がどのようにして旧約の民をエジプトの隷属から解放してくださったか、について語ります。
そして、皆が雲の下におり、皆が海の中を通り、皆がモーセへの洗礼を受けたことを、パウロは強調します。
皆がマナを食べ、皆が岩から湧き出た水を飲みました。
にもかかわらず、民のうちのごく少数の者だけが「約束の地」にたどり着くことができたのでした。
他の人々は皆、旅の途中で力尽きました。
このことについては、「ヘブライの信徒への手紙」3~4章も指摘しています。
あきらかにそれは、クリスチャンへの訓戒をこめた説教の一般的なテーマだったことでしょう。
パウロは、旧約の民の上に起こった出来事全体が、皆に警告を与える実例であり、「私たち」すなわち「キリストの教会」にとっての前例でもある、と言っているのです。
彼は聖霊様を雲と対応させ、洗礼を紅海の横断と対応させ、聖餐式をマナと対応させています。
ここで大切なのは、教会は今もなお(天国の)栄光への旅を続けているのであって、もうすでに目的地に着いたというわけではない、という点です。
教会の場合にも、目的地(天国)にたどり着けるのはごくわずかの人々だけになってしまうことは、十分ありうることです。
  
この箇所を読む時に、パウロがどのようなやり方で、聖礼典(サクラメント)と、神様が流浪する民に行ってくださった奇跡とを対応付けているか、について注目してみるのがよいでしょう。
人間の信仰が聖礼典を造り出すわけではない、ということを私たちはここにも見ることができます。
聖礼典は常に内実を失わない、とルーテル教会は信じ、教え、告白してきました(つまり、聖礼典は信仰者にも不信者にも効力を持つ、ということです)。
聖礼典は、信じている人には神様の恵みを分け与えてくれますが、神様の恵みをはっきりと拒んだ人に対しては神様の裁きを招きます。
  
私たち現代人は、この箇所を注意深く読む必要があります。
パウロの生きていた頃とは時代が変わりました。
当時、教会は教会員一人一人の世話をきちんと行うことができました。
この箇所は教会の中核のグループ、すなわち礼拝に参加することを大切にしている人々について語っています。
彼ら以外の人々を教会に導くのは実にたいへんなことです。
教会は、人々のお祝い、洗礼式、堅信礼式、結婚式、葬式などを通して、一般の教会員と接触を持っています。
人々は、こういう機会がなければ、御言葉を聞く必要性を感じもしません。
今ここで取り上げられている箇所は、現代の教会が謹聴すべき警告なのです。
時代も習慣も変わったとはいえ、神様の真理はいささかも変わってはいません。
神様を捨てたり、姦淫したり、主に反抗したりするのは、今でもなお、命を失うほど危険なことです。
とりわけ細心の注意を払うべきなのは、この箇所は国民の大部分が教会に形式的に所属している(たとえばフィンランドのような)状況を念頭において書かれたものではない、という点です。
パウロが危惧している「グループ分け」は、教会員は救われるが他の者は地獄に落ちる、というような単純なものではありません。
神様は教会員たちの集まりの只中に、この区別を行うために来られます。
まさにそのゆえに、パウロはここで、教会の外部の人たちに対してではなく、コリントの信徒たちに対して警告を発しているのです。
  

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