2011年2月7日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章 神様の賜物としての「異性」の存在

   
神様の賜物としての「異性」の存在
  
西洋の考え方の中には、ユダヤ的な考え方とギリシア的な考え方が互いに絡み合っています。
そして、このことは私たちの視点を曇らせています。
  
ギリシア的な考え方(あるいは、その一般的な思潮)は、「異性が存在する」ことに対して非常に強く否定的な態度をとります。
そして、自分とは異なる性に対して感じる魅力は「弱さ」であるとか「肉的」であるとみなされてきました。
(性に関する)より正しいあり方は、「プラトニックに」、つまり自制して生きることでした。
このように考える場合、結婚は多くの人にとっては「必要悪」であり、それゆえ「家庭生活」は一般の高い評価を受けるものではなかったのです。
  
今まで扱ってきた箇所には、性の問題に対する聖書の態度がとてもよく出ています。
神様の創造のみわざの清々しい風が、旧約聖書の端々から私たちのほうへと吹いてきます。
聖書は性と結婚について恥ずかしがることなく自然に美しく語っています。
神様のお定めになった規則は明瞭で、創造のみわざに基づいています。
それらは、美しいことがらが地獄のような破壊の力に変わったりしないように、私たちを保ち守るために与えられたものです。
  
フィンランド人の間では、これらふたつの考え方は互いに混ざり合っています。
それゆえ、性の否定とキリスト教とがしばしばいっしょくたに扱われてしまうのです。
しかし実際には、両者には何の関係もありません。
このことについても、私たちは周囲を見回すよりも、聖書を読むべきなのです。
  
もうひとつのまったく別の問題は、神様の御心と御言葉がまったく足蹴にされている現状です。
このような事態が他のケースについて起きているのですから、この問題(性)についても同じことが起こらないはずがありません。
しかし、神様の御言葉を捨てる者は、「命の道」を捨てるのです。
そして、自分の人生の責任を自分ですべて引き受けることになってしまいます。
そのようなことにならないように、愛する天の御父様、私たちを守ってください!