2011年3月3日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」10章23節~11章1節 

  
肉屋について 10章23節~11章1節
  
「すべては許されている」というフレーズは、あきらかに一部のコリントの信徒間で流行っていた言い回しです(6章12節を参照してください)。
今ここでパウロは、「クリスチャンの自由」を非常に深く真剣に教えています。
たとえすべてが許されているとしても、すべてが有益である、というわけではありません。
(クリスチャンは行動する時に)他のクリスチャンたちのことも考慮に入れるべきなのです。
  
まだひとつ問題が残っています。
もしも犠牲に捧げられた肉を食べるのが本当にそれほど危険なことだとしたら、肉屋ではいったいどうすればよいのでしょうか。
店では偶像に捧げられた肉しか売っていないからです。
クリスチャンはいつでもどこでも肉を食べないようにしなければならないのでしょうか。
「そうではない」、とパウロは言います。
神様は全世界の造り主ですから、何ひとつ犠牲の儀式によって「偶像に属するもの」に変質したりはしません。
犠牲の食卓に参加しないならば、肉屋で売っている肉は良心を汚さずに食べることができます。
そのかわり、肉を食べることに関して他のクリスチャンたちがどのように言っているか、ちゃんと把握しておかなければなりません。
もしも家を訪れたクリスチャンが「おみやげ」として肉を持参した場合には、その肉については何も訊かずに食べてかまいません。
しかし、もしもその場の誰かが、「その肉は偶像に捧げられたものです」と告げた場合には、その人のために肉は口にしないでおくべきです。
クリスチャンの愛は、自分自身の権利や自由を行使しないでおくことを要求するものでもあります。
このようにすることで、ユダヤ人のことも異邦人のことも無益に傷つけなくてすみます。
パウロは大胆にも、自分自身のことをコリントの信徒たちの模範として提示しています。
9章全体を通して彼は、「コリントで自分の有している権利を利用しなかった」、と語ってきたわけですから。
 
今回の箇所は、私たちに相当な量の「宿題」を与えています。
「日常生活の中でクリスチャンは他の人たちのことをどのように考慮していかなければならないか」、ということが次から次へと出てきました。
クリスチャンは自由であり、誰もクリスチャンを無理やり奴隷にすることはできません。
にもかかわらず、クリスチャンは自分自身を「すべての人の僕」とします。
このメッセージは、表面的あるいは理論的にその意味を思い巡らすために与えられているわけではありません。
パウロの生き方がそれをよく示しています。
その意味で今回の箇所は、私たちがその教えを日常生活の中で実践するように、という挑戦状であるとも言えます。