2009年3月12日木曜日

マルコによる福音書 第8回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

悔い改めなさい!

イエス様はこう言われます。「私はあなたに対して責めるべきことがあります。あなたははじめの愛を捨ててしまいました。そこで、あなたはどこから落ちてしまったかを思い出して、悔い改めてはじめのわざを行いなさい。」(ヨハネの黙示録2章4~5節)
イエス様がまっさきにごらんになるのは、私たちのわざではなく、私たちのわざの原動力となっているものだ、ということがこれからわかります。「あなたは私に祈っていますか、あなたは私に対して信仰を告白しますか、あなたは私のために何かについて苦しみを受けていますか、あなたは私のために犠牲になっていますか」などと、イエス様は尋ねたりはなさいません。イエス様が訊かれるのは、「あなたは私を愛していますか、私はあなたにとって愛するものでしょうか」ということです。

どうですか。イエス様は私たちにとって愛するお方でしょうか。イエス様への自分の愛が確かなものだと(自分やまわりの人に)納得させなければならないとき、おそらく多くの人たちは黙り込んでしまうのではないでしょうか。それでもあなたは、自分を恥じながらも、かすかな声でこの質問に「そうです」と答えるのではないでしょうか。あなたはそうするほかはないでしょう。あなたが「なぜイエス様が自分にとって愛するお方であるのか」を自問するときに、「なぜ罪深い女がイエス様を愛するようになったか」を説明するイエス様の次の御言葉は、あなたにも当てはまるのではないでしょうか。「それゆえ、私はあなたに言います。この女の多くの罪は赦されているのです[1]。それで[2]、彼女はたくさん愛したのです[3]。」(ルカによる福音書7章47節より)
あなたはほかの理由を見つけないでしょう。まさにあなたの罪のゆえにあなたは、「人間の罪のために死ぬことによって罪を赦してくださったイエス様」を必要としているのです。

ところが、多くの人は、心の中でこの信仰の出発点をすっかり忘れて、立派で聖なる者になってしまい、十字架につけられたキリストとそのあがないの血が、彼らの内なる命の唯一のよりどころではなくなってしまうようです。そのかわりに彼らにとっては、福音のために労苦すること、罪や悪に激しく反対すること、正しい教えを守るために激しく戦うこと、さらには、イエス様のために苦難を受けること、などが大切になってきます。そのような者たちにイエス様はこう言われます。
「あなたは、どこで躓いたのかを思い出して、悔い改めなさい。」
人が貧しい罪人の立場をはなれて立派になり、日々の罪の赦しを必要ともしないで生きていくようにさせるような「霊的生活」は決して正しいものではありません。キリストのあがないの血による恵みが、私たちの人生の夕べにいたるまで常に、私たちが呼吸する「空気」であり、私たちが生きていくために必要な「食べ物」でなければなりません。

主、イエス様!私たちはあなたの御前で心を開いています。私たちを試してください。そして、私たちの内なる命の唯一の太陽となってください。世の罪を担ってくださる方よ!

K.V.タンミネン (「よい守りの中で」)
[1] 完了形。
[2] 「なぜなら」とも訳せる。その場合意味がすっかり変わってしまうことに注意。
[3] アオリスト。