2009年3月12日木曜日

マルコによる福音書について 第8回目の質問

第8回目の集まりのために

マルコによる福音書8章1節~9章1節

弟子たちは「イエス様がキリストであられる」と告白しました。イエス様の道はまもなく十字架に向かっていきます。

1)この段階になって、なぜイエス様からしるしが要求されたのでしょうか?それまでなされた奇跡では足りなかったのでしょうか?旧約のしるしを(神様の)権威に基づいて与えた人たちは誰でしたか?

2)人生のどのような状況の中で、私たちは神様からしるしを求めることができるでしょうか?奇跡は、十字架につけられた主イエス様を信じるように、人を導くことができるでしょうか?

3)目の見えない人を癒される出来事(8章22~26節)は福音書全体にかかわりをもっている箇所です。目の見える者は実は目が見えません。しかし、イエス様は目の見えない人を見えるように癒されました。

この出来事は霊的な盲目とその癒しについて話すときに正当にも引き合いに出される箇所です。「イエス様のみが霊的な盲目を癒してくださる」ということは、私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか?使徒信条の第3信条(聖霊様への信仰)についてのルターの教理問答書は、次のように始まります。「私は自分の理性や力によっては主イエス・キリストを信じることも、その御許に行くこともできないけれども、聖霊様が私を福音を通して招いてくださっていることを、私は信じます。」

4)「栄光の神学」は、神様の力やキリストの栄光やキリスト教信仰の合理性やクリスチャンの強さを強調します。一方、「十字架の神学」の核心には、神様は御自分の力をこの世では隠しておられることにあります。それゆえ、神様の力があらわれるのは、傷つけられたキリストの中、人間的な理性に反しているように見えるキリスト教の信仰の中、また、クリスチャンたちの弱さの中なのです。ペテロはどちらの神学を代表していますか?イエス様はどちらの神学を教えておられますか?私たちのそれぞれの教会では、どちらの神学がより強い支持を得ていますか?「正しい」栄光の神学というのは、ありえないのでしょうか?

5)8章34~38節をもう一度読んでください。この箇所の御言葉に従って、教会史に登場する有名な人物たちは持ち物すべてを人に分け与えました。今でもクリスチャンは皆、自分が所有しているものを全部捨て去るべきなのでしょうか?

6)9章1節の意味は何ですか?