2009年3月12日木曜日

マルコによる福音書について 9章30~34節

2度目の苦難の予告 9章30~32節

イエス様は弟子たちを群集の中から連れ出して彼らに対してだけ教え始められました。その教えの内容はフィリポ・カイザリヤでのものと同一です。すなわち、「人の子なるイエス様は人々の手中に落ち、殺され、死んだ後で3日目によみがえる」というものです。この教えはイエス様の教えの核心であり、イエス様のもっとも大切な使命にかかわっていることなのに、弟子たちはそれをまったく理解できませんでいた。旧約聖書においてすでに準備されている神様の御計画は、人々にとっては理解しがたいものでした。弟子たちでさえわからないままだったのです。このように「キリストの秘密」は、イエス様が教えてくださっているにもかかわらず、依然として「秘密」のままでした。


誰が一番偉いか? 9章33~34節

イエス様が御自分に訪れる受難についてはじめて弟子たちに告げられたときのように(マルコによる福音書8章)、弟子たちはイエス様が二度目にこのことを告げられたときにもその「受難」の意味を理解しませんでした。つまり、イエス様の弟子たちさえもイエス様のことがわかってはいなかったのです。これもまたキリストの十字架の道の一部でした。弟子たちはイエス様から「あなたたちはここに来る途中で何を論じ合っていたのですか?」と尋ねられました。弟子たちにとって、これは先生から訊かれたくない質問でした。弟子たちは恥ずかしくて答えることができませんでした。「自分が他の人よりどんなに偉い立場にあるかについて言い争っていたのだ」などとは誰も言いたくはなかったのです。イエス様は彼らの真ん中に小さい子どもを連れてきて、神様の御国の「憲法」にかかわる教えをなさいました。すなわち、「一番偉い人は皆の僕にならなければならない」ということです。神様の御国には偉い人のための名誉職などはなく、あるのはただ僕の職のみなのです。小さい子どもに仕える者は、その子を通してキリストに仕えているのです。そして、キリストに仕える者はキリストを通して神様に仕えています。