2009年3月12日木曜日

マルコによる福音書について 9章11~13節

誰がエリヤか? 9章11~13節

旧約聖書の最後を飾るマラキ書は、「預言者エリヤが主の日の到来の前にやってきて民を神様へと方向転換させることになる」と教えました(マラキ書3章23節)。マルコによる福音書のこの箇所で弟子たちは、「エリヤがまずはじめに来なければならなかったのでしょうか?」とイエス様にたずねました。実は、その質問は「弟子たちの信仰告白」でもあったのです。まずはじめにエリヤが来て、それからキリストが来るはずでした。いまやキリストが来てくださった、ということは、エリヤはどこにいるのだろうか?「エリヤはすでに来たのだけれど、人々は彼に注意を向けなかったのだ」とイエス様は言われました。マタイによる福音書ではさらに、イエス様はここで洗礼者ヨハネを意味しておられた、と説明しています(マタイによる福音書17章13節)。この箇所に関連してよく聞かれる質問で、まったく聖書的ではない考え方について、ここで触れておかなければならないでしょう。それは東洋的な宗教性としてしばしばとりあげられる「魂が遍歴するという教え」です。この教えは、「人はひとつのまとまった存在である」とする旧約聖書的な考え方とは相容れないものです。東洋の宗教によれば、それぞれの人の魂には「不死なる神性」が微量ながら含まれています。これと同様の迷信は古代のギリシア人たちの中にも見出せます。こうした考えに従って、「人は死んでもその魂はこの世に残り、新しい肉体を見つける」と信じ込まれていたのです。しかし、聖書にはこのような考え方はまったくありません。聖書によれば、人の肉体と魂は神様の創造のみわざの結果であり、神性の一部分などではありません。それゆえ、魂も人から人へと遍歴するようなことはないのです。魂は神様の創造なさった人の中にある、神様が創造なさった一部分なのです。エリヤは特別なケースです。というのは、彼は生きたままで天へとあげられたからです(列王記下2章18節)。