2009年2月9日月曜日

マルコによる福音書について 8章34節~9章1節

十字架と苦悩 8章34節~9章1節

ペテロはイエス様に自分の忠告を押し付けようとして失敗しました。イエス様は民衆を御許に集めて、皆に「十字架の道」について話されました。その話のポイントは、「私たちは神様の道に従って歩まなければならない」ということです。この道を歩む者は、この世の心地よい陽だまりから引き離されて、暗い谷へと導かれます。イエス様に従っている者たち自身も、十字架の道を歩み始め、イエス様と福音のために自分の命を失うことになります。このように自分の命を失うことによってのみ、人は自分の命を見出すことができるのです。もしもイエス様が最後の裁きの座でその人を「御自分のもの」として認めてくださらないならば、お金も、人間が手にいれることができるどんなものも、役には立ちません。キリストをこの世で恥じる者を、キリストは最後の裁きの座で恥とみなされます。イエス様がこの箇所の終わりで言われている御言葉(9章1節)は、これに続く箇所(栄光の山での出来事)に文脈的に属している、と後世の教会が判断してきたものです。この節は多くの人々を困惑させてきました。イエス様はここで、「私と共にいる者のうちの何人かは、神様の御国が大いなる力をもって出現するまでは、死ぬことがありません」と約束なさっているからです。この節についてはさまざまな説明がなされてきました。たとえば、「神様の御国は栄光の山でその力を現した」(9章2~10節)という説明があります。確かに栄光の山には何人かの弟子たちがイエス様と共にいました。「一日は主の御前では千年に等しく、また、千年は一日に等しい」(ペテロの第2の手紙3章8節)という御言葉に注目する人たちもいました。しかしこれらの説明では、「9章1節の御言葉はすみやかに実現するかのような印象を与えるものであるにもかかわらず、なぜイエス様はなかなかこの地上に戻ってきてはくださらないのだろうか」という疑問が残ります。「イエスの予想は間違っていた」と考える人たちも大勢います。しかし、使徒パウロはどう言っていますか?マルコによる福音書よりも前に書かれたローマの信徒への手紙9~11章では、おおむね次のように言われています。神様はキリストにおいて、まずはじめに御自分の所有の民であるイスラエルを招かれました。何人かの例外を除けばイスラエルは神様の御言葉に耳を貸さず、自分たちに用意されている救いを拒絶してしまいました。それゆえ、神様は福音が異邦人たちの間で受け入れられ広がっていくようになさったのです。つまり神様は計画を変更されたのです。全宇宙の主として神様はそうする権利をおもちです。救われるべき異邦人の数が神様の御国に満ちたとき、福音はユダヤ人たちにも受け入れられるようになります。このように神様は、異邦人をもユダヤ人をも皆一律に、心がかたくなになって罪の赦しの恵みを求めざるを得ないような状況に閉じ込めたのでした。「神様は、御自分の民をそのかたくなな心にゆえに裁くことはまだなさらず、逆に彼らを憐れむために、わざわざ迂回する道を選ばれたのだ」、とパウロは書いているわけです。私たちも「自分たちがまだこの同じ迂回の路上にいるのだ」と考えることができるでしょう。