2018年12月10日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 2章18〜25節 僕としてのキリスト信仰者

2章18〜25節 僕としてのキリスト信仰者

キリストへの信仰を告白することが
それほど大きな困難を招かない場合が多い現代の世界とは異なり、
ペテロのこの手紙が書かれた当時の状況はたいへん厳しいものでした。
とりわけ過酷な立場に置かれたのは
キリスト信仰者となった僕(しもべ)たちでした。
彼らの主人がキリスト教を心から憎み、
キリスト信仰者である僕に過酷な労働を強いる場合もありました。
そして、悪事を働いたわけでもないのに
キリスト信仰者が懲罰を受けることがしばしば起きました。

このような場合には、いったいどうするべきなのでしょうか。
これに対して、ペテロは「キリストの模範」を提示します。

私たちの愛する主は自らの栄光にしがみつくことがありませんでした。
イエス・キリストは罪も責められる点もまったくないお方でした。
それにもかかわらず、
御自分を責める者たちを逆に責め返すことはなく、
怒ることも脅すこともなさらず、
御自分にかかわる一切のことを父なる神様にお委ねになりました。
このようにしてイエス様は全世界の罪を肩代わりし、
私たち皆に模範を示してくださったのです。

ですから、
「キリストに属する者たち」もまた、
イエス様の模範と同じような態度をとるべきなのです。
そして、
それ相応の理由から当然の苦しみを受けるのではなく、
まったく理由もないのに苦しみを受けるほうがよりよいことである、
と考えるべきなのです。

今まで見てきたように、
ペテロの手紙が奨励している内容はたいへん厳しいものです。
はたして私たちにはそれを主の御言葉として受け入れる力があるのでしょうか。
ここで基本事項を復習しておくことにしましょう。
すなわち、
他のすべてのことについてと同様に、このことに関しても、
上に述べてきた力は神様からのみいただけるものなのです。

私たち人間がするべきことは、キリストとその愛を見つめることです。
このキリストの愛こそが私たちのうちに変化をもたらします。
このような変化は私たち自身の力では決して実現できません。
この力あるキリストの愛の影響を受けて、
もしかしたら私たちは自分が傷つけられたことや害を受けたことを
忘れることができるようになるかもしれません。

皆さんはどう思われますか。