1章13〜25節 結論へ!(その6)
「あがない」という言葉は
新約聖書において極めて重要なキーワードになりました。
たとえば、次の一連の聖句を見てください。
「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。
神はその民を顧みてこれをあがない、
わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった」
(「ルカによる福音書」1章68〜69節、口語訳)。
「どうか、あなたがた自身に気をつけ、
また、すべての群れに気をくばっていただきたい。
聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、
あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」
(「使徒言行録」20章28節、口語訳)。
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
(「ローマの信徒への手紙」3章24節、口語訳)。
「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、
わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。
聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、口語訳)
「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、
その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」
(「エフェソの信徒への手紙」1章7節、口語訳)
「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、
手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、
一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」
一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章11〜12節、口語訳)。