2013年9月2日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 15章1~17節 イエス様を介してのみ、人は神様とつながることができます(その3) 



イエス様を介してのみ、人は神様とつながることができます 
15117節(その3)


イエス様の言葉は、
私たちが隣人愛について話し合うときに頻出する
二つの問題について再考を促します。

第一の問題は、
私たちは頭の知識と隣人愛とを互いに正反対なものと見なしがちである、
ということです。
しかし、ここでの箇所を今まで読んできた人は、
そのような対置が意味をなさないことに気づくことでしょう。
正しい知識とイエス様とのつながりとは、
隣り人を愛する方向に私たちを導いていくからです。
もしもそうならないなら、
その人は明らかに間違った知識をもっているのです。
残念なことに、私たちのキリスト信仰者としての生活態度は、
しばしば薄っぺらで無気力なものとなっています。
そのような状態になる理由は、
私たちが頭の中にだけ正しい知識をたくさんもっているからではなくて、
私たちが愛に満ちたキリストの視線を見失ってしまったために、
キリストの愛に基づいて何も実行できなくなっているからなのです。
もしも私たちキリスト信仰者の信仰生活が無気力なものだったり、
冷酷さを帯びたものだとしたら、
実のところ、私たちは
イエス様の十字架に基づいて信仰生活を送ってはいないことになります。

次に問題なのは、
現代の私たちは隣人愛と聖書に書いてある戒めとを
別々に切り離して考えるようになってしまっている、
という現状です。
一方では、律法主義的なキリスト信仰者が聖書を法律書のように読んでおり、
他方では、愛の大切さに気がついたキリスト信仰者が戒めを無視し、
愛の行いに関心を集中する、といった具合です。
こうした矛盾もまた、「古いアダム」の引き起こす問題です。
イエス様の教えによれば、
主の御心に従おうとするところに、
主への愛は具体的な形を取ってあらわれます。
神様の御言葉は、大部分のケースでは、
主の御声を真剣に聴き取ろうとする者にとって、しごく明瞭な指示です。
それに対して、自分の頭に頼って生きたい者にとっては、
どの戒めも意味が曖昧で実行不可能なものとなってしまいます。