2013年9月23日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 16章4b~16節(その3)



164b~16節(その3)


この箇所の終わりのほうには、
キリストの教会を二分するもうひとつのことがらが取り扱われます。
伝統的にローマ・カトリック教会は、
1213節を次のように理解してきました。
すなわち、
神様の啓示は使徒たちの時代の後に途絶えたのではなく、
ほかでもない教会(これはある人にとっては教会の公会議、
またある人にとっては教会の組織の頂点に立つ法王を意味します)が
神様の御霊の導きによって新しい決定を下す能力を継承している、
という見方です。
一方、ロシア正教会は、
全世界の教会には歴史上最初の七つの(いわゆるエキュメニカルな)
教会公会議の決定事項を保守する責務がある、という立場を取ります。
一部のルーテル教会の中で一般化しつつある考え方は、
常に聖霊が教会の公会議を神の意思が必ず実現するように導いており、
それは公会議の決定が聖書の教えに反する場合でも変わらない、
というものです。
これと同じような考え方は他のケースでも見られます。
例えば、聖霊がキリスト信仰者に聖書が禁じていることを
行うように決断させる、という考え方です。

上述した一部のルーテル教会の考え方とは異なり、
本来のルター派の信仰は、
神様の御言葉は無謬であり、
教会にとっても、キリスト信仰個人にとっても、
十全に信頼できる指導書だ、
という立場に基づいています。
実際の教会の歴史をひもとくと、
個人としてのキリスト信仰者も、
牧師も、牧師団の長も、教会の公会議さえも、
一様に誤った判断や決定を下すことがありうることを明瞭に示しています。
それに対し、神様の御言葉だけが揺らぐことなく堅く立ち続けます。
現代のフィンランドのルーテル教会の公会議は、
時と共に、一般の人々の意見に期待に添うように
物事を決定するようになってきています。
しかし、私たちルター派の信仰によれば、
神様の御霊は聖書の中で今も語りかけておられるので、
御自分と矛盾するようなことは決してなさいません。
それゆえ、
私たちは聖書が教えていることに満足するべきです。
そして、聖なる書物(聖書)の教えから引き離すような
他の諸霊の影響を一切受けないように、警戒しなければなりません。
神様の御霊は、迫害下にある教会の中で働いておられ、
この世に対してその罪と義と裁きを示される、ということを、
イエス様の御言葉はここで指しています。
聖霊様は、イエス様の御言葉に従うこととは異なる方向へ
人を導くようなことを決してなさいません。