2013年9月13日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第15回目の終わりのメッセージ



終わりのメッセージ

主は愛する者に選伐を施される


植物を植えて、水をやり、世話をすることに、
無上の喜びを見出す人々がいます。
私は久しく植物の栽培に特に興味がありませんでした。
しかし、ある時からこの趣味を少しばかり始めました。
もう昔のことですが、息子たちと一緒に薬草を鉢に植えました。
小さい子も大きい子も一様に栽培に夢中になる様子は、
傍らから見ていて感動的なものがありました。
種から芽が出て、小さな苗が育ち、葉をつけます。
それに水をやり、光に当ててやり、もっと大きな鉢に植え替え、
できるかぎり面倒を見てあげます。

ところで、植物の世話は、私の父の一番好きな趣味だったと思います。
何十年もの経験の蓄積によって、父は大切な苗たちを、
私などにはとうてい理解できないやり方で取り扱うことができました。
実に様々な植物の鉢が窓際を埋め尽くしている家に私は育ちました。
家族の皆にとって最愛の植物は、 オレンジの木でした。
それを植えたのは小さい少年で、
彼は非常に若くして天の家に転居した私の兄でした。
兄は天の家へと去りましたが、オレンジの木はこの世に残りました。
そして、それは大きく立派な木に成長しました。

ある日、私が学校から帰ってくると、
兄のオレンジの木は選伐が施され、すっかり台無しになっていました。
後に残されていたのは、小さな茎の部分だけでした。
私は愕然として、何事が起きたのか、と尋ねました。
「こうしなければ、この木は死んでしまうところだったのだよ」、
と父は答えました。
オレンジの木は大切な思い出と結びついていました。
父はこの木に対する愛情から、
事情を知らない者には木をだめにするようにしか見えない
酷な手段を取らざるを得なかったのです。

「ヨハネによる福音書」でイエス様は、
御自分がぶどうの木であり、キリスト信仰者はその枝である、
と説明されました。
イエス様は一枝ごとに庭師のような世話を焼いてくださいます。
イエス様は枝の周りの余計なものを刈り取って整え、
ちゃんと実を結ぶように、
また後で刈り取られるようなことがないように、
配慮してくださいます。
この世話の仕方には、厳しすぎるとも思えるような面もあります。
すなわち、
実を結ぶ枝の周りにある余計な茎を、イエス様は刈り取られるのです。
このように、神様に属する多くの者は厳しく取り扱われます。
彼らの人生から、大切なものや大きなことが切り取られてしまいます。
例えば、大切な友人たち、自分の家族や健康などです。
私たちはそのことを理解しないし、誰も説明できません。
誰にとっても、これよりも難しい宿題はありえません。
そのような困難な状況の中にいる場合にも、人は、
「偉大な庭師は、何を刈り取り、何を残すか、
ちゃんとわきまえた上で行っている」、
という信頼を失うことなく、大らかに成長して行けるでしょうか。

「御父が私を愛されたように、私もまたあなたがたを愛しました」
(「ヨハネによる福音書」159節)。
十字架の主は、愛することに倦み疲れることがありません。
私たちが何も理解せず、途方にくれている場合であっても、
この主の愛は、決して変わることがありません。

(エルッキ コスケンニエミ、「ヨハネによる福音書」ガイドブックの著者)