2013年8月28日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 15章1~17節 イエス様を介してのみ、人は神様とつながることができます(その1)



キリストとのつながり 
--- それは何であり、また、どのような結果を生むものか?

「ヨハネによる福音書」151節~164


イエス様を介してのみ、人は神様とつながることができます 
15117節(その1)
  
 
イエス様がぶどうの木とその枝について話されるとき、
旧約聖書を知悉している当時の聴き手なら、
現代の私たちでは気がつかないような
次のことに思いをめぐらすことでしょう。
旧約聖書において、イスラエルは神様が植えられたぶどうの木です。
このイメージを理解するのは容易です。
森には実に様々な木が一杯生えています。
誰もそれらの木の世話をしたりはしません。
それに対して、庭師は、
もてる技量を尽くして、
一本の小さな苗を植え、育て、世話をし、守ります。
そして、その木に自分のすべての関心を寄せます。
まさにこれと同じように、
旧約聖書によれば、
イスラエルは神様の関心を一身に受ける存在であり、
神様に属する民なのです。
ところが今、イエス様はそのイメージを変えられます。
それによると、
神様は庭師であり、イエス様御自身はぶどうの木です。
また、イエス様を通してのみ、人は聖なる神様とつながることができます。
このぶどうの木につながっていない人は、神様にもつながってはいません。

この箇所のイエス様の言葉の最初の大切な内容は、
イエス様を介してのみ、人は神様につながることができる、
ということです。
もうひとつの大切な点は、
キリストの御前に立つ人々は二つのグループに分けられる、
ということです。
一つのグループはイエス様と離れ、
切られた枝のように次第に枯れていき、
しまいには一箇所にまとめられて焼かれてしまいます。
このように、
イエス様から離れる人々には永遠の地獄への滅びが待ち受けています。
もうひとつのグループは、
ちょうどぶどうの木につながっている枝のように、
イエス様とのつながりを保ちます。
庭師は、このような活きた枝のために手入れを行います。
枝を選伐し、整え、枝が実を結べるようにし、実ったぶどうの房を喜びます。
これと同じように、
イエス様もまた御自分に属する人々のことを世話してくださいます。 
神様の御心に適わない、私たちに付随している事柄を
イエス様は選伐し、
私たちを神様の御心に適う正しい生き方へと導かれます。
このようにして、私たちは実を結びます。
この箇所によれば、
この「実」とは隣り人への愛のことです。
キリストに従うことは、たんなる頭の中の知識ではありません。
それは愛として具体的な形を取ります。