2013年8月7日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 13章1~20節 弟子たちの足を洗うイエス様(その2)



弟子たちの足を洗うイエス様 13120節(その2)


「ヨハネによる福音書」は、
裏切り者ユダのところで何か特別なことが起こったとは記していません。
それに対して、ペテロの場合は
ただじっと座っていることができなかった様子がよく描かれています。
彼は沈黙を破り、イエス様が彼の足を洗うことを拒みました。
それに対するイエス様の意味深い言葉は、
人が神様の御前でいかなる存在か、をよく示しています。
たとえイエス様が自分の足を洗ってくれる行為に
どれほど違和感を感じたとしても、
もしもキリストがそのように仕えてくださらなければ、
人間は誰も神様の御前で耐えることができないのです。
この奉仕は、たんに思想や遠い世界のことではなく、
実際に触れることができるほど具体的なものです。
ペテロの足元で手足をついて奉仕するイエス様は、
そのわずか数時間後には鞭打たれて血塗れになり、
茨の冠を被せられ、十字架に釘づけになった
「主の苦難の僕」と同じ方です。

ペテロは自分の立場をわきまえてはいますが、
ここでもまた例によって子供じみた誤解をしてしまいます。
イエス様が彼をたくさん洗ってくれればくれるほどよい、
と彼は考えたのです。
イエス様の言葉はキリスト教の洗礼を明確に指しています。
この言葉が暗示的であり、
ある特定の歴史的な状況に直接関係するものであるとはいえ、
私たちはそのメッセージを理解することができます。
人は洗礼において、
「イエス様に結び付けられる」というプレゼントをいただきます。
「ローマの信徒への手紙」6章によれば、
キリストに結び付けられることは、
一方では、洗礼を受けた者に守るべき義務を課すものでもあります。 

「ヨハネによる福音書」も同様に、
キリスト信仰者に与えられる「賜物としてのキリスト」と、
キリスト信仰者の「模範としてのキリスト」とを、
互いに結び付けて描き出しています。 

この箇所の最後の言葉は、これから起こることを予告するものです。
「詩篇」4110節の予言が実現しつつあります。
中近東の世界では、一緒に食事をすることは聖なることがらです。
この詩篇は、
食事会を催す主人に対して「かかとをあげる」という
侮辱的な振る舞いによって、
今まで共に会食してきた親密な間柄をいっぺんに台無しにする
裏切り者の様子を描いています。
ユダはイエス様を裏切ります。
しかし、このことを通して二つのことが明らかにされました。
神様の聖なる御言葉(旧約聖書)の預言は成就することと、
イエス様は予言の成就の前に
それをあらかじめ御自分に属する者たちに説明なさっていることです。
それは、
イエス様が「私がである(あるいは「存在する」)」、
という方であることを彼らが知るためでした。
この「私がである(あるいは「存在する」)」
(ギリシア語で「エゴー エイミ」)という言葉は、
神様が御自分を表すときに用いる表現です。
この表現は同じ意味で、
たとえば「出エジプト記」314節にも出てきます
(ヘブライ語で「エヘイェー アシェル エヘイェー」)。