2013年5月15日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 11章28~44節 退く死の支配


  
退く死の支配 112844
 
  
「ヨハネによる福音書」において、
死者の中からのラザロの復活の描写は、独特であり見事です。
ラザロの墓の傍らには、実に恐るべき死の支配があらわれています。
それと同時に、
人間と神様との間の大きな違いもまた明らかにされています。
悲しみに駆られた人々は、
ラザロが死んだという、この世での出来事を悲嘆しています。
ラザロの墓の傍らでイエス様が泣き出された時、
その場の人々は、
イエス様はラザロの死をやるせなく悲しんでいる、と思いました。
実はイエス様は、
死と暗闇が人間の心を支配していることと、
周囲にいた人々の不信仰について
泣いておられたのです。
イエス様は、御自分のためには、
死者からの復活という奇跡を行う必要はありませんでした。
それを必要としていたのは、
命のことも死のことも実はわかっていない、
イエス様を取り囲んだ人々だったのです。
死者が墓からよみがえる時、
人は誰でも神様の真理の深淵を覗き込む機会を与えられます。
その真理とは、
「キリストは命をこの世にもたらすために
天の御父様が遣わした方なので、
死の支配はキリストの傍らでは崩れ去っていく」、ということです。
この出来事には他にも大切な点があります。
それは、イエス様が驚愕されたことと、泣き出されたことです。
イエス様が十字架にかかり、
普通の人間が死ぬのと同じように
苦しみながら死んでいかれたことは、
すでに「ヨハネによる福音書」が書かれた時代でも、
多くの人の心を傷つけるようなことがらでした。
たとえば、
「実はイエス様は
身体を持たないたんなる霊のような存在だったので、
苦しむこともなく、まして死ぬようなことはなかったのだ」、
という説明を施すことで
当時の人々を躓かせるこうした問題点を回避する試みもなされました。
 
「ヨハネによる福音書」でも、他の三つの福音書でも、
こうした合理化の試みの跡は微塵もありません。
私たちが福音書で出会うのは、
戦い苦しまれるイエス様、
痛みと病気を知悉しておられる方です。
この箇所で死者とそれを取り囲む人々の無理解を見て泣かれるお姿は、
こうしたイエス様を美しく描き出しているといえるでしょう。