死んでいる者と生きている者
「ヨハネによる福音書」11章
6章でイエス様は、
まず何千人もの人々に食べ物を分け与え、
それから命のパンについて話し始められました。
9章でイエス様は、
目の見えない人の目を癒し、
それから霊的な盲目さについて語られました。
今ここで扱う箇所でイエス様は、
ラザロを死者の中からよみがえらせました。
しかし、それは
たんに死者の中からの復活という奇跡に留まるものではありません。
この箇所で私たちは、
命とは何か、死とは何か、
誰が活きており、誰が死んでいるのか、
という問題を考えなければならなくなります。
意図的な遅延 11章1~10節
ラザロが重い病気だと聞いたイエス様は、
しかしすぐには行動を起こさずに、意図的に出発を遅らせました。
ここに、この章の核心が示されています。
その核心とは、死者の中からの復活の奇跡だけではありませんでした。
一連の出来事の真の狙いは、
神様の御子の栄光をあきらかにすること、すなわち、
イエス様の真のお姿を示すことにありました。
それゆえ、
ラザロのことを悲しむ人々は待ちぼうけをくらい、
その間にラザロは死んでしまいます。
弟子たちは、
イエス様がエルサレムの地方に出向かれようとするのを見て、
不思議がります。
イエス様は、
ついこの間エルサレムであやうく殺されかけたばかりだからです。
ここでもイエス様は、
目の見えない男の人を癒された時に彼に言われたのと同じ内容を、
御自分の活動の根拠として繰り返しておられます(9章4~5節)。
それは、
人が働くことができる時には限りがあり、
いつかかならず人生の黄昏が来て、人はもはやよい働きができなくなる、
ということです。
このことは、とりわけイエス様に当てはまります。
イエス様には、この世での使命がありましたが、
それは限られた期間内に終了しました。
イエス様はその間、
危険を避けたりせずに活動を継続しなければなりませんでした。