「ヨハネによる福音書」6章
第6回目の質問
1)イエス様は聖餐式について
「ヨハネによる福音書」では直接的にはまったく話しておられません。
にもかかわらず、この6章ではまさに聖餐式について語っておられます。
こうした福音書の記述の仕方には何か理由があるのでしょうか。
2)1500年代の聖餐をめぐる教義論争において一番重要な聖書の箇所は、
ルター派にとっては聖餐式の設定辞
(「マタイによる福音書」26章26~28節、
「マルコによる福音書」14章22~25節、
「ルカによる福音書」22章19~20節、
「コリントの信徒への第一の手紙」11章23~26節)であり、
改革派にとってはこの「ヨハネによる福音書」6章でした。
ルター派の教義を整えた当時の神学者たちの聖書的な根拠を、
今日の私たちは理解することができるでしょうか。
3)旧約聖書に知悉しているユダヤ人たちにとって、
イエス様が何千人もの人々に食べ物を分け与えられた奇跡は
どのような意味をもっていましたか。
4)6章20節を字義通りに訳すと、
イエス様は、「私はある。おそれてはいけません」、と言っておられます。
イエス様は旧約聖書のどの箇所を指しておられるのでしょうか。
5)「マタイ、マルコ、ルカによる福音書」は
イエス様の奇跡を短く報告しています。
「ヨハネによる福音書」では、奇跡の後に対話や説明が続きます。
この章の食べ物の奇跡の場合でも、
説明はすくなくとも三つの層をなしています。
それらはどのようなものですか。
6)6章26~27節でイエス様は、
何千人もの人々にパンを分け与えるのは
その時に同時に起きていたより偉大な出来事にくらべれば
副次的なものにすぎないことを明らかになさいました。
この「より大切なこと」というのは何でしょうか。
7)「ヨハネによる福音書」において、しばしばイエス様は
奇跡が起こるのを待望している人々のことを批判なさいました。
現代のキリスト信仰者の生活で奇跡がもつ意味は何でしょうか。
私たちはまちがったやり方で
奇跡の意味を過大評価したり、
あるいは過小評価しているのでしょうか。
8)6章32節におけるパンについてのイエス様の話を聞いた人々は、
それをどのように理解しましたか。
この御言葉は本来ならばどのように理解するべきだったのでしょうか。
9)6章52~59節は、
「ヨハネによる福音書」の中心的なテーマを再び取り上げています。
それは、
イエス様は人々にとってたんなる道ではなく、唯一の道である、
ということです。
この信仰にしっかりと留まるのは難しく感じられますか。
これらの御言葉によるならば、
ムスリムの人々(イスラム教徒)は救われることになりますか。
無神論者はどうでしょうか。
天国と地獄は存在するのでしょうか。
これらの問題は、
私たちキリスト信仰者の伝道生活にとってどのような意味をもっていますか。
10)6章65節を読んでください。
人は自分からすすんでイエス様を信じることができるのでしょうか。
人はこのために何かできるのでしょうか。
それとも、何もできないのでしょうか。