2013年2月13日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 6章22~59節 イエス様は命のパン 



イエス様は命のパン 62259
  
 
「ヨハネによる福音書」が奇跡の出来事を語るのは、
奇跡が人々の興味を引くからではありません。
イエス様のなさった「しるし」の目的はいつも、
奇跡の表面的な興味深さよりも
深く大いなることがらに関わっています。
ここでも、それはあてはまります。
食べ物の奇跡の後には、命のパンについての話が続きます。
ひどいことに、これほど壮大な奇跡をなさったにもかかわらず、
またしてもイエス様は人々から誤解され拒絶されることになります。
  
この内容豊かな箇所から、
私たちは幾つかのことを取り上げるのに留めましょう。
イエス様が命のパンについて語られる時、
そこには少なくとも三つの層が見出せます。
 
1)この話の背景には、食べ物の奇跡があり、
パンはまったく普通のパンを意味しています。
ユダヤ人たちは、命のパンを決してなくならない
(この世的な意味での)パンのことだと理解します。
 
2)この話の背景には、「箴言」9章(特に16節)があり、
そこには「知恵」が行う祝宴が描かれています。
「ヨハネによる福音書」のプロローグでは、
「知恵」=「ロゴス」=「御言葉」が肉となり、
人々の間に住まわれたことが語られています。
イエス様こそが、この「人となられた知恵」です。
この「知恵」は、
人々が間違った生き方を捨てて、
御自分の諭しを受ける道を歩みだすよう、
呼びかけています。
 
3)この話の背景には、新しい契約の食事、主の聖餐があります。
「ヨハネによる福音書」はこのことについて、
直接的にではないものの、十分明確に語っています。
キリストの肉を食べることと永遠の命についての話は、
まさに聖餐に結びついています。
11節での言葉遣いが、
聖餐式の設定の流れとほぼ一致しているとみなせることからも、
それがすでにわかります。
  
ここで起きた食べ物の奇跡は、
イエス様の教えによれば、二次的なものでした。
パンを求めてイエス様をさがすのは意味がありません。
イエス様の真の使命は、人々に神様の恵みをもたらすことでした。
そして、すべての核心にあるのが、キリストの死でした。
全世界の罪のために、イエス様は御自分を殺させたのであり、
世の罪を帳消しにするために、その血を流してくださったのです。
こうしてイエス様は、自ら「命のパン」となられました。
イエス様において、「知恵」が祝宴へと招待しています。
神様は人々を、
暗闇から救い出されて御自分の光の中で生きるように、
召してくださいました。
この祝宴に招かれた者は、死から命へと移っているのです。
  
この箇所が最高潮に達するのは、5259節です。
実は、それは「ヨハネによる福音書」の一番の核心となる
真理のおさらいでもあります。
つまり、人には
完全な救いがキリストの中にあり、またキリストの中にしかない、
ということです。