祝宴に招く「知恵」
「ヨハネによる福音書」6章
今まで見て来たように、「ヨハネによる福音書」は、
多くの箇所で他の三つの福音書とは異なったやり方で、
イエス様のみわざを記述してきました。
しかし、この6章に至って、四つの福音書の記述は一挙に合流します。
多くの人々に食べ物を分け与える奇跡の後に
イエス様が水の上を歩かれる記述は、
「マルコによる福音書」でも共通しています。
他にも共通する点がいろいろとあります。
例として、
人々はイエス様から「しるし」を要求します
(「マルコによる福音書」8章11~13節)。
ペテロはイエス様をキリストであると信仰告白します
(「マルコによる福音書」8章27節)。
「マルコによる福音書」(6章27~38節)でも「ヨハネによる福音書」でも、
キリストの歩まれる道は、今はっきりと恥辱と下降へと向かっていきます。
「ヨハネによる福音書」が聖餐式の設定については語っていないことを
覚えている読者にとって、この6章の内容は困惑を招くでしょう。
確かにこの福音書は、聖餐について、直接には一度も言及していません。
にもかかわらず、
この6章は、聖餐式の施行について語っているものと考えないと、
まったく理解できなくなります。
「ヨハネによる福音書」が聖餐や洗礼について
ヴェールで覆うような書き方ばかりしている理由を、
研究者たちは説明できませんでした。
「ヨハネによる福音書」は、該当事項の記述に関して、
他の三つの福音書(とりわけ「マルコによる福音書」)に
信頼して任せたのかもしれませんし、
すでに聖餐や洗礼について基礎知識をもっている人々に対して
語りかけたかったのかもしれません。
あるいは、神様の御国の奥義を
すべての人には明かしたくなかったのかもしれません。
6章の意味は、5章との関連で明らかになります。
5章の終わりで、イエス様は、
すでにモーセが御自分について証していた、
と語られます。
ユダヤ人たちは、この証を旧約聖書から見つけることができませんでした。
にもかかわらず、キリストのみわざとペルソナは、
すでに旧約聖書の端々に見出されるものです。
大勢の人に食べ物を与える奇跡と、
イエス様が水の上を歩かれる奇跡とは、
まさにこのことに関連しているのです。