2012年8月14日火曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 19章6~10節 小羊の婚礼(その1)



小羊の婚礼 19610節(その1)

  
それからヨハネは、
この世の終わりの後にどのようなことが起こるか、目にします。
小羊の婚礼の時がきたのです。
天国に入った人々は、この結婚式について神様に賛美を捧げます。
賛美の声はあまりにも大きく、ヨハネはそれを
大群衆の歓声、多くの水の音、激しい雷鳴にたとえています。
神様は、御自分があらゆる権威を持っておられることを、
ついに示してくださいました。
悪魔は一味もろとも打ち負かされ、
永遠の喜びが天国で始まろうとしています。
  
旧約聖書は、神様の民と神様との関係を「結婚」にたとえています。
ちょうど夫婦が互いに対して忠実であるべきなように、
神様の民もまた神様に対して忠実でなければなりません。
彼らが他の神々に仕え始めたり、
神様の御心を無視したりしたことは、
「姦淫」でした。
「ヨハネの黙示録」はこれと同じことについて語っています。
イエス様に属する人々、すなわち、
洗礼を受けていてイエス様を信じている人々は、
イエス様と許婚の関係にあるようなものです。
彼らは自分の花婿に対して忠実を貫かなければなりません。
イエス様にお仕えするのを止めたり、
イエス様が言われたことをまったく心に留めなかったりするのは、
「不実」な態度です。
いまや神様の教会は「イエス様の花嫁」なのです。
その婚礼の時は、
キリストが再臨されて、この世とその悪が終わり、
永遠の世界が始まる時です。
  
7章では、罪人である人間が
この大いなる婚礼のお祝いに招かれるにふさわしい「衣」を、
どのようにしていただくのか、について語られました。
小羊の血によって衣が洗われ、白くされたのなら、
小羊の婚礼が行われる天国に入ることができます。
神様は天国にお住いで、聖なるお方です。
それゆえ、天国には自分の罪を抱えたままでは入ることができません。
罪は赦される必要があり、
イエス様の血だけが私たちの罪を洗い落としてくれます。
「自分は天国に入れる」と自認する一方で、
イエス様の血を大切にしていない人は、
自分自身を欺いており、天国への道を歩んではいません。
ここでも「ヨハネの黙示録」は、
天国へ入った者たちの上に着せられた「衣」について語っています。
「この衣は、聖徒たちの義なる行いである」、と言われています。
しかしこれは、
「よい行いをすることが天国へ入るための条件である」、
という意味ではありません。
人が天国に入る唯一の条件は、罪の赦しを受けていることです。
「罪の赦し」は、
何ら行いを成し遂げることなしに、
賜物として、イエス様からいただけるものです。
8節は、
天国で婚礼が始まる直前に神様に属する人々が何をいただくことになるか、
語っていると思われます。
「神様の御心にかなう義なる行い」がそれであり、
私たちはその中に身を包まれる、ということです。
その意味は、
この世で最もまじめな「神様の子どもたち」の生活の中にも
執拗につきまとう悪い行いが、いまや過去のものとなった、
ということです。
ついに悪は消え去りました。
天国に入った人々は、神様の御心にかなう善い正しいことのみを行います。
このため、天国は素晴らしい場所になります。
相手を傷つける言葉も、悪い行いも、
自己中心的な態度も、愛に欠けた冷たさも、
もはや存在しません。
あるのはただ、私たちが互いに行う「よきわざ」のみです。
これもまた神様の賜物であり、私たちの手柄などではありません。
「着せられた」という言葉が、このことをよくあらわしています。
本来私たちがもっていないはずのものを、
神様は私たちの上に着せてくださるのです。