2012年8月9日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 19章1~5節 天国の喜び


 
「ヨハネの黙示録」19

天国の喜び 1915
  
 
滅亡したバビロンを見た後で、ヨハネは名状しがたい声を耳にします。
それで彼は、再び「あたかも」という言葉を援用します。
言葉自体は明瞭に聞き取れるものでした。
「ハレルヤ」という声が天から響いてきたのです。
これはヘブライ語の言葉で、「主を賛美せよ」という意味です。
不思議なことに、この言葉は新約聖書中、
「ヨハネの黙示録」のこの章にしかあらわれません。
にもかかわらず、
この言葉を初代のクリスチャンたちが礼拝などで使用していたのは、
まず確実です。彼らは旧約聖書を読んでいたわけですし、
「詩篇」にも「ハレルヤ」という言葉は何度も登場しているからです。
  
天国の大群衆の歌は、
神様がついに世の悪を消し去り、
あまりにも多くの悪をやらかした張本人を裁いてくださったことへの
感謝にほかなりません。
神様は非常に長い間、ひたすら忍耐してくださいました。
世の悪をご覧になりながらも、
神様は世に「悔い改めるための時」をお与えになりました。
その目的は、できうるかぎり多くの人々が悔い改めて救われることでした。
しかし今や、それも終わりました。
神様の教会が祈りながら待ち望んできた「その日」を、
ヨハネは目の当たりにしているのです。
  
5節で、神様の僕たちは「神様を畏れる者たち」と呼ばれています。
「神様を畏れる必要はない」、と多くの人は考えています。
彼らにとって神様は「(自分と対等な立場にある)友達」のような存在で、
友達をこわがる必要はないからです。
しかし、聖書はそれとはちがうことを教えています。
神様はあまりにも大きく、私たち人間はあまりにも小さいため、
私たちは神様の友達などにはなれないのです。
神様は非常に偉大なお方であり、私たちとはまったく比較にならないので、
神様を畏れるのは正しいのです。
しかしそれは、
神様から逃げ出したり、神様の御許に行く勇気をなくしたりする、
という意味ではありません。
「神様を畏れる」というのは、
神様を敬う心の深さから、
私たちが自分と対等の友達に接するときとはまったくちがう態度を、
神様に対しては取るようになる、ということです。
神様を畏れる人は、神様が言われることを注意深く聴きますし、
神様と異なる意見に固執する大胆さなども持ち合わせてはいません。
神様を畏れる人は、神様の御心を無視して生きる無謀さなどはもたないし、
神様に属する人々のグループから外れることもしません。
そのように生きることで、
たぶん世からは疎まれることになるかもしれませんが、
神様を畏れる人は、
「人間から受ける怒りは、聖なる神様の怒りよりも
はるかに容易に耐えることができるものであること」、
を知っているのです。