2011年5月16日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」14章1~25節 

 
礼拝における預言と異言 14章1~25節
  
この章の前半で、パウロは二つの「恵みの賜物」、すなわち預言と異言を詳細に取り扱い、それらの用い方について指示を与えています。
 
「異言」とは、人が霊の働きかけによって生じる特殊な心の状態の中で語り出すことです。
それはとりわけ祈りや神様への賛美というかたちで現れます。
聞いている人は誰もその話がわかりません。
話している人自身でさえそうなのです。
異言を理解可能なものとするのは、もうひとつの恵みの賜物、「解き明かしの賜物」です。
この賜物は、単純に言えば、異言の内容を聴き手に伝えるために理解可能な言葉に通訳する能力のことです。
異言を話す人とは異なり、「預言」という恵みの賜物を与えられている人は、聴き手に言語的に理解可能な言葉を話します。
しかし、預言も霊の働きかけによるものであり、話し手は特別な心の状態で話している場合もあります。
その言葉は話し手自身から生まれたものではありません。
神様の御霊がその人に、その人自身は考え及びもしなかったようなことをあきらかにするのです。
預言は常に未来の予言だとはかぎりません。
むしろそれは、「神様が預言者の目を開いて、他の人たちには見えていないことを今ここで見えるようにする」、ということを意味しています。
たとえば、24~25節によれば、預言者は人々の一番隠しておきたい秘密の考えさえも視ることができるのです。
    
これらの賜物はコリントの教会でどのように用いられていたのでしょうか。
そして、パウロによれば、それらはどのように用いられるべきなのでしょうか。
異言の問題点は、誰も異言の内容を理解できない、ということです。
コリントでは、このことをとりたてて問題視する人は誰もいなかったようです。
しかし、パウロにとってはそうではありませんでした。
仮にコリントの信徒たちがパウロの言葉を理解できないのだとしたら、パウロのコリント訪問は無益になってしまうところです。
異言を話す人とその聴き手とが互いに理解し合えないかぎりは、異言を話す人は聴き手にとっては「外国人」です。
教会の礼拝では、これは奇妙な状況をもたらします。
一方が長い話をし、他方がその話について「アーメン」と唱和しますが、話し手がいったい何を言ったのか、聴き手には見当もつかないのですから。
それゆえ、異言は不信者を一人も信仰者にすることができません(21~22節)。
こういうわけですから、異言を話す人はそれを解き明かす技能をも祈り求めなければならないのです。
自分自身がコリントの信徒たちよりも優れた異言の話し手であるにもかかわらず、パウロはこのように言っているわけです。
自分に与えられた賜物を軽んじることなく、パウロは、「教会の礼拝では異言を用いるつもりはない」、と言います。
異言の内容を解き明かす人がいないところでは、異言を用いるべきではないからです。