2011年3月28日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第9回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
  
「兵士のひとりが槍でイエス様のわき腹を突くと、すぐにそこから血と水が流れ出た」(「ヨハネによる福音書」19章34節)。
  
主イエス・キリストのわき腹から流れ出ている血は、私たちを罪から贖いだすための「値」、「支払い」、「負債の全額帳消し」でした。
故のない苦しみと死と、十字架で流された聖なる貴い血によって、愛する私たちの主イエス・キリストは、私たちの罪の負債をすべて肩代わりしてくださり、私たちが自身の罪のゆえに受けるのが当然であるはずの「永遠の死と地獄」から、私たちを贖いだしてくださいました。
このキリストの血は父なる神様の御許で私たちのために休むことなくこう叫びつづけています、
「憐れんでください!赦して下さい!お父様!」。
こうしてキリストの血は私たちに、神様の恵み、罪の赦し、義と救いをもたらしてくれました。
父なる神様は今、私たちの仲介者、愛する御子が私たちのために叫んでくださる執り成しの祈りを聴いてくださり、惨めな罪人である私たちに対して憐れみ深く接してくださいます。
私たちは罪に塗れ、しかもまったく罪そのものであるにもかかわらず、父なる神様は私たちの中に何の罪も見出されません。
父なる神様は、愛する御子イエス・キリストの貴くかけがいのない血のみを見つめておられます。
この血が私たちの上に降り注がれています。
この血は、金の恵みの衣です。
この衣に包まれて、私たちは父なる神様の御前に出ます。
それゆえ、父なる神様は私たちを、あたかも御子そのもの、義と聖と無垢に満ちた方、であるかのように見なすほかはなく、またそのように見なしたいと望んでおられるのです。
また、キリストの血には、私たちをあらゆる罪や悪い行いから解放し、洗い清める力があります。
それゆえ、降り注がれたこの血によって覆われている人は、喜び安心して父なる神様の御前に出て、神様に助けを祈り求め、その祈りが確実に間違いなく聴かれていることを望む勇気を持ちます。
「イエス様への信仰を通して、私たちは勇気を得て、信頼しつつ神様の御許に出ます」、とパウロが言っているとおりです(「エフェソの信徒への手紙」3章12節)。
このように、クリスチャンは父なる神様の御前に勇気を持って進み出て、神様からありとあらゆるよいものを自分の上に待ち望むにとどまらず、自分が神様の子供であることを誇る勇気をも得ます。
神様のいかなる敵もどんな被造物も、神様の子供であるクリスチャンを傷つけて台無しにすることはできず、すべては神様の権威の下に屈服させられているからです。
  
(マルティン・ルター 「霊的な清涼剤」)