2011年3月18日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」11章17~22節

  
聖餐式における問題 11章17~22節
  
パウロにとってより大きな問題だったのは、コリントの信徒たちの聖餐式の行い方にはいろいろと改善するべき点がある、ということでした。
このことについて彼は、コリントの教会を実際に訪れた人から聞いていました。
今使徒は、教会を内部抗争のゆえに叱責するつもりはありません。
それに関しては、すでに1~4章で厳しく戒めたからです。
ここでの彼は優しく、「教会がさまざまなグループに分かれるのは至極当然である」、とさえ言っています。
しかしこれらの言葉にもかかわらず、パウロの意見ははっきり読み取れます。
すなわち、自分のグループの殻に閉じこもる教会員たちの内輪的な態度がコリントの教会に問題を引き起こした、ということです。
当時、主の聖餐式を行うときに、それと共に会食をする慣習がありました。
それは多くの人にとってその日の唯一のまともな食事だったのです。
その食事会のなかで、パンとぶどう酒という本来の聖餐も食されました。
空腹を満たすための食事は各自の「もちより」でまかなわれるはずでした。
おそらく、まずはじめにパンを食し、それから食事を取り、その後でぶどう酒の入った杯が祝福されました。
ところが、教会員たちの閉鎖的なグループ根性がここで露呈してしまいました。
裕福な教会員たちが、長時間働いてから食事会に参加する貧しい人たちのことをわざわざ待ってあげたりしなかったのは、あきらかです。
ともかくも、彼らには自分で用意してきたお弁当を自分のグループ以外の人たちにも配るような配慮はありませんでした。
こうして、ある人たちには食べ物がありあまるほどあったのに、他の人たちには食べるものが何もない、という状況が生じました。
聖餐式を行うときに、信徒間の経済的な格差に基づく不平等と、自分のグループに閉じこもる内輪性が、もろに表面化する結果となりました。
それは教会員同士の溝を深め、争いを悪化させました。
「どこかまったく別の場所で十分飲食するように」、とパウロは助言しています。
「教会の集まりではパンとぶどう酒のみを食するべきである」、と。