2011年3月9日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第8回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
  
私が大学生だった頃、私の住んでいた学生寮では、ときおり様々なテーマについて激しい議論が繰り広げられました。
それはもちろん若さのなせるわざでもありました。
ある時こうして夜遅くまで議論していて、私たちのうちの一人が他の人とはちがう意見を支持しました。
ところが、議論が進むうちに彼の意見の根拠が次第にぐらついていきました。
そのとき彼は突然立ち上がり、「要するに私の勝ちだ」と言い放つと、すぐに自分の部屋に引きこもり、ドアに鍵をかけました。
 
「私の勝ちだ」。
「私が正しい」。
こうした態度は雑誌の読者欄ではしばしば見受けられます。
そのような場合の多くは、もはや議論の対象はテーマ自体ではなくなり、ただ人間同士が言い合っているにすぎません。
「私の方が正しい」。
こうした喧嘩が起きなかった家庭がいったいどこかにあるでしょうか。
誰でも自分の誤りを認めるのは難しいものです。
 
自分の正しさに固執することが議論の大原則となっているかぎり、霊的なことがらについての話し合いはだめになってしまいます。
確信をもつのは悪いことではありません。
しかし、自分の正しさに固執するという確信は罪です。
聖なる御言葉を「弟子の心」をもって研究しないところでは、こういう確信が幅を利かせます。
御言葉は真理です。
私たちは、御言葉が私たちのことを吟味し指導してくれるように、自分自身を御言葉に明け渡します。
さもないと御言葉は、それを乱用して自分の正しさを証明しようとするための外的な手段あるいは武器にさえなってしまいます。
私たち自身の生活に当てはめてみもしないで、聖書を研究したり活用したりすることはできません。
このようにしてのみ、自分の正しさに固執する誘惑に打ち勝つことができるのです。
  
自分の正しさに固執するのは悪いことです。
御言葉に基づく確信は命の力です。
  
(ラウリ コスケンニエミ 「家では帰りを待っている」)

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