2011年3月24日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」11章27~34節 

  
聖なる礼典、聖餐式 11章27~34節
 
コリントの信徒たちが聖餐式を誤用しているため、主の聖餐の本質を彼らがよく見極めるよう、使徒は勧めています。
彼の言葉は真剣な警告です。
主の聖餐にふさわしくない態度で参加することは、主の死に対して罪を犯すことを意味します。
それゆえ、人は聖餐が聖なる式であることを心に銘じておかなければなりません。
「主のからだをわきまえないで」聖餐を食べ飲む者は、それによって自らに裁きを招くことになります。
この御言葉は、二通りの意味にとることができます。
まず、「主のからだを他の食べ物と明確に区別しなければならない」、という意味です。
もう一つは、「主のからだ、すなわち主の教会をわきまえないで飲み食いする」、という意味です。
後者の解釈は、「主の聖餐には主のからだ、すなわち主の教会が臨在している」、と指摘しているわけです。
この「からだ」(教会)では皆が平等なので、コリントの教会で起きてしまったような差別は誰に対してもあってはならない、というわけです。
確実なことは言えないにせよ、前者の説明のほうが正しいと思われます。
 
31節で、パウロは自分自身を正しく裁く(吟味する)ことについてこう語ります、
「もしも自分で自分を裁くならば、私たちは裁かれることにはならないでしょう」。
人は、自分で自分を裁く(吟味する)ときに、正しい心構えで主の聖餐に参加することになるのです。
そういう場合には、神様はその人を裁いたりはなさいません。
  
コリントの信徒たちが病気になったり死んだりしたケースについては、謎めいた部分が残ります。
それは主の裁きですが、特定の個人や教会全体に向けられたものではありません。
この裁きの目的は、コリントの教会を破壊することではなく、それを(霊的に)目覚めさせることでした。
もしもそうでなければ、教会は世と共に同じ裁きを受けることになるでしょうから。