2011年3月11日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」11章2~16節 

  
聖餐式の奥義
   
「コリントの信徒への第一の手紙」11章
  
 
11章2~34節 教会の礼拝
  
偶像に捧げられた肉を食べることと、それに関連する隣人愛とについて懇切丁寧に説明してきた後で、パウロは今まったく別のテーマに移ります。
11章2~14節の箇所は教会の礼拝に関するものです。
 
 
被り物の有無 11章2~16節
  
この箇所でパウロは、コリントの教会で彼が正したいと思っていることを取り上げます。
ちょっと読んだだけでは、正確にはいったい何が問題になっているか、皆目見当がつきません。
使徒は、礼拝でコリントの女たちが頭を被り物で覆わないことについて、苦言を呈します。
この箇所からわかるのは、パウロには、この問題は些細なことではない、ということです。
  
2節は、古典世界の弁論術に典型的な、聴衆の共感を得ようとする書き出しです。
この箇所でパウロは、ふたたびコリントの信徒たちのご機嫌を取っています。
それにより、彼がこれから言おうとしていることを彼らがすんなりと受け入れてくれるように、努めているわけです。
パウロによれば、礼拝で祈ったり預言したりするときに、男たちは頭を被り物で覆わないこと、また、女たちは頭を被り物で覆うようにすることは、大切なことなのです。
祈ることと預言することは、その両方とも、公的な場に登場することや、祈りの奉仕をすることや、御霊の伝えたメッセージを皆に知らせることを意味しています。
パウロはこの被り物の慣習の根拠を「創造の秩序」に見出します。
女は男から生じたので、彼女は「権威の下にいる者のしるし」を頭に被らなければならないのです。
顔ではなく髪を覆うこの被り物について、私たちは古典時代当時の絵から知っています。
それとは逆に、男は公の場所で祈ったり預言をしたりするときには、何の被り物も頭につけてはなりません。
男は女から生じたわけではないからです。
使徒によれば、長い髪は、男にとっては恥ずべきものだが、女にとっては光栄なものであることを自然も教えています。
かりに誰かがこれに反論するとしても、神様の諸教会の慣習はその人自身に対しても規範となっていることを知るべきなのです。
   
この箇所に関しては、聖書の解釈者も教会の信徒も一様にお手上げという状態です。
パウロが描いている教会の慣習の中で実際に生活していた教父テルトゥリアヌスが、私たちの理解を助けてくれます。
彼はパウロの言葉を次のように理解しました、
「コリントの教会の女たちは常に頭の上に(今話題となっている)「被り物」をつけていた。
ところが、預言の霊が彼女たちの中に入って来ると、彼女たちはその被り物を投げ捨てたのだ」、と。
この態度に込められているメッセージはどのようなものでしょうか。
それは、預言の霊を受けて話し始めた女は、もはや女として話しているのではなく、教会の教師として説教しようとしている、ということです。
これをパウロはよくないこととみなしました。
それゆえ、彼は誤解を避けようとしました。
パウロの命令のポイントは、教会の女たちが皆同じような服装で礼拝に参加しなければならない、というようなことではありません。
パウロは、コリントの教会の女たちが教会の教師になろうとするのを止めさせようとしているのです。
彼はこのことを14章で極めて明瞭に禁じています。
   
この箇所に基づいて、世界各地の教会のなかには、男たちは教会の建物の中に入る時に帽子をはずす、という慣習を千年以上も守りつづけてきたところがあります。
同様に、女たちは教会でスカーフや被り物を頭の上につける、という習慣が残っている教会もあります。
フィンランドのなかにもこうした慣習を今でも守っているキリスト教のグループがあります。
この慣習自体を悪く言う人は誰もいないでしょう。
にもかかわらず、この慣習はあきらかに間違った聖書解釈に基づいている、と言わざるをえません。
こうした聖書の誤解が生じた理由は、単純です。
何百年もの歳月を経て服装にかかわる慣習がすっかり様変わりし、もはやパウロの言わんとすることが正しく理解されなくなってしまった、ということなのです。