2011年3月25日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第9回目の質問

  
「コリントの信徒への第一の手紙」 第9回目の質問
 
この11章の始めの部分で、パウロは教会の礼拝で女が公に登場することを取り上げます。
章の終わりのほうで、彼は聖餐式とコリントの信徒たちの愛に欠けたやり方とに話題を移します。
  
1)男たちが教会に帽子を被らずに来るという慣習は、何に基づいていますか。
この慣習は聖書的でしょうか。
また、こうしたやり方を今でも守るべきなのでしょうか。
  
2)フィンランドの教会では、昔は聖餐式のある礼拝は稀で、年に2~3回程度でした。
今では多くの地方教会の礼拝で毎週聖餐式があります。
こうした変化の方向をどのように評価するべきでしょうか。
この変化には、どのような益があるのでしょうか。
またそこには、よくない面もありうるでしょうか。
  
3)29節はどういう意味でしょうか。
「自分自身を裁く(吟味する)」というのは、どのようなことでしょうか。
 
4)パウロは聖餐式が聖なる式であることを強調します。
私たちが聖餐の礼典を必要としそれを敬っていることを、どのようにして私たちは示すことができますか。
 
5)はじめてミサを執り行ったときに、ルターは聖餐式の設定辞の偉大な意味、すなわち、彼のすぐ傍に聖なる全能の神様がおられるということ、に気づいて驚愕しました。
もしも指導者が恐慌に襲われたこの新参の若者をしっかり支えていなかったならば、ルターは聖壇からたちまち逃げ出していたことでしょう。
このエピソードから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
  
5)30節はどういう意味でしょうか。
病気や死は、結局のところ神様の懲罰なのでしょうか。
また、神様の懲罰には何か益となることがありますか。