2011年1月19日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第6回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
    
永遠の滅びを避けるために、クリスチャンは主の御声を聴いて御許に戻り、悲嘆して自分の罪を告白し、主イエス・キリストにおいて私たちがいただいている「贖いのみわざ」に信仰を通して「避けどころ」を求めるべきです。
もしも迷子になった羊が羊飼いの声に耳を貸さず、羊飼いの許に戻ろうとしないならば、その羊は荒野で衰弱し、しまいには野獣の餌食になってしまいます。
放蕩息子(「ルカによる福音書」15章)は遺産を異国で浪費し尽くし困窮しました。
彼には故郷の家に裕福で優しい父親がいたのにです。
これとまったく同様に、洗礼を受けた者が天のお父様を捨て、主イエス様から離れ去るならば、洗礼においていただいたあらゆる尊い賜物と天の御国の遺産すべてを失ってしまうことになります。
放蕩息子は自分の父親の許に来て、心から自分の罪を告白し、こう言います、
「お父さん、私はあなたと天に対して罪を犯しました」。
父親は彼を憐れみ、首を抱いて接吻し、礼服を着せ、あらゆるやり方で、彼が今も変わることなく自分の息子であり遺産相続者であることを示してくれました。
  
洗礼の恵みから外れてしまった罪人が、ざんげの心でみたされて、天の御父様の御許に戻り、再び主イエス様の恵みの中に避難する場合には、その罪人に対しても放蕩息子の場合と同じことが起こります。
なぜなら、たとえ私たちが洗礼の契約を破ってしまった場合でも、神様のほうではその契約を破ったりはなさらないからです。
たとえ私たちが洗礼の恵みから踏み外れてしまった場合でも、神様の洗礼は地に落ちてだめになったりはしません。
聖なる洗礼は神様の堅固な城です。
そこにあなたは今でも戻ることができるし、避難することができます。
それは、あなたが時には洗礼の恵みから外れてさまようことがあっても変わりません。
洗礼は、私たちが「この世の海」を渡って航海するための「船」です。
ルターも言っています、
「この船は決して壊れません。
なぜなら、それが神様の御心であり、神様がお定めになったものであって、私たち人間が作り出したものではないからです。
ところが、私たちはしばしばぐらついてはこの船から落ちてしまいます。
もしも誰かにこういうことが起こったならば、その人は泳いで船のところまで戻り、それにぴったりしがみついて再び中に入り、前と同様、船と共に前に進んでいくようにしなさい」。
  
F.G. ヘドベルグ 「疲れた人に休息を」