2011年1月28日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章10~11節 

  
短い律法 7章10~11節
 
離婚について語るとき、パウロは自分自身の意見をあれこれ考えようとはしません。
そのことについては、解釈の余地のない「主の御言葉」があり、それを彼はコリントの信徒たちに伝えています。
配偶者を捨ててはいけません。
しかし、もしもそうなってしまった場合には、ドアを開けたままにしておかなければなりません。
これは、「死が夫婦を離れ離れにするまでは、新たに結婚してはいけない」、という意味です。
この箇所を理解するために必要なのは、内容を理解する力だけです。
離婚についての教えがイエス様の御言葉に基づいているのは、あきらかです(たとえば、「マルコによる福音書」10章11~12節、「マタイによる福音書」19章6節)。
 
私たちの生きている現代では、結婚制度は危機を迎えています。
離婚も普通の出来事になってしまいました。
どうしてこうなってしまったのでしょうか。
せわしない生活リズムと使い捨ての消費社会が、家族のまとまりを保てなくする理由の一部であるのは確かです。
一方では、神様の御言葉から故意に離脱する姿勢が、この件に関してとりわけ顕著に見られます。
誰も離婚するために結婚したりはしませんが、「結婚の聖さ」は、それをお定めになったお方の聖さを知らない人々には、当たり前のことではなくなっています。
まず第一に言っておくべきことは、「結婚は私たちの中にいる「古いアダム」を打ち砕くものだ」、ということです。
今私は、「離婚しているか、していないか」を基準として、人々を罪人と罪人ではない人とに区別したいとは思いません。
家族の体裁を保ち続けているどの家族の中でも、神様の御心に反した行いが、悔い悲しむ心もなく行われています。
ぶつぶつ文句を言ったり、怒ったり、復讐したり、配偶者を自分の思い通りに拘束しようとしたり、「あなたは私を命令してはいけないぞ」と態度で示したりします。
誰の結婚生活であっても、いつ爆発してもおかしくない「怒りのサイクル」を内蔵しているものです。
結婚した時の幸福感がいつの間にか消えうせ、ついにはどちらも互いに見向きもしなくなる時が来ることがあります。
そのようなときには、結婚生活の中で一番大切な「ごめんなさい」という言葉を用いて、二人で一緒にゴルゴタの十字架の御許に行き、主にも罪の赦しを乞い、また、主から罪の赦しをいただくことが、私たちにできる残された唯一のことです。
そうする場合には、もはや誰も、「自分にはまったく落ち度がない」と思い込んで、(自分が完全になるために)自分の弱点を消去するための無謀な戦いをしようなどとはしなくなることでしょう。
このやり方によってのみ、罪人たちは一緒に幸福に暮らすことができるのであり、皆の上に結婚の制定者からの祝福が安らかに留まり続けるのです。