2011年1月12日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」6章9~11節 

   
神様の御国を継ぐことができない人々 6章9~11節
  
パウロは、「どのようなことが罪深い悪い行いか」を記したリストを作成します。
このようなリストは新約聖書の他の箇所にも幾つかあります。
たとえば、「ガラテアの信徒への手紙」5章19~21節とか、「エフェソの信徒への手紙」5章5節などです。
「正しくない者たち」(ギリシア語で「アディコイ」)というのは、神様を無視して生きている人々を指す、一般的な名称です。
「姦淫をする者たち」(ギリシア語で「ポルノイ」)とは、いろいろなやり方で第六戒を破る行いをしている人々のことです。
たとえば、不貞をはたらくとか、結婚する前に性的関係をもつとか、などがその例です。
「男娼となる者たち」(ギリシア語で「マラコイ」)と「男色をする者たち」(ギリシア語で「アルセノコイタイ」)というふたつの言葉はどちらもホモセクシュアルの男性を指しています。
後者はその積極的な側、前者はその受身の側のことです。
リストにはさらに、「酒に酔う者たち」、「盗む者たち」、「偶像を礼拝する者たち」、「略奪する者たち」などが入っています。
注目すべきは、リストの中に「貪欲な者たち」や「そしる者たち」が入っていることです。
これらの者には皆、ひとつの共通点があります。
それは、「彼らは天の御国を継ぐことができない」、ということです。
パウロは、「このこともコリントの信徒たちは当然知っているはずだ」、という書き方をしています。
「コリントの信徒全員がこのことを知っていたとは、いったいどういうわけだろうか」、と訝る研究者もいます。
この疑問への納得のいく答えとして、「洗礼を受ける時にこれらのリストが読み上げられたので、洗礼を受ける者は皆このリストに明記されているひどい罪を捨て去るべきであるということを知っていた」、という説があります。
パウロがこのリストを挙げた後の箇所で洗礼について語っているということも、この説の正しさを裏付けています。
多くのコリントの信徒たちのクリスチャンとしての昔の生活態度には、たしかにあまりほめられたものではないところがいろいろとありました。
しかしながら、彼らは洗礼を受けて「キリストのもの」となっており、こうして彼らはキリストにあって「聖で義なるもの」とされているのです。
それはまた、彼らが自分たちの罪の生活を捨てて歩むことを義務付けるものでもあります。
  
パウロは私たちにとって、「誰が天の御国を継ぐことができ、誰ができないか」という疑問に対して答えることができるこのうえない専門家です。
彼の言葉を疑問に付すのは愚かしいことです。
ともかくも、彼の教えはここフィンランドでは忘れ去られています。
フィンランド人全員が、「上のリストに上げられている公の罪を犯している者は永遠の命を継ぐことができず、永遠に滅びてしまう」、ということをちゃんと知っているのでしょうか。
天国と地獄は存在するでしょうか。
キリスト教信仰は私たちにとってたんなる趣味や暇つぶしにすぎないのでしょうか。
「これは生きるか死ぬかの問題だ」、ということを私たちはしっかりと理解しているでしょうか。
もしも理解しているならば、なぜ私たちは、他の人たちや自分自身の状態の抱えている危機を、燃える心をもって親身に心配したりしないのでしょうか。