2011年1月14日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」6章12~20節 

   
自由の限界 6章12~20節
    
パウロは、「すべては私には許されている」とか、「食べ物はおなかのためにあり、おなかは食べ物のためにある」という言葉を引用しました。
おそらくコリントの教会にあらわれた「変に霊的な人々」が、パウロが引用しているこれらの言葉を使っていたのでしょう。
ギリシア古典時代には、「人間の欲求を満たすのは自然なことだ」、と主張する哲学の流派があらわれました。
「人間の欲求には恥じるべきことも自制すべきこともないのだ」、というのです。
あるいはコリントの異端教師たちの教えの背景には、こうした哲学の影響があったのかもしれません。
 
「コリントの教会の変に霊的な人々は、御霊の力の発現に驚嘆して気を取られ、肉体の罪には注意を払わなかったのではないか」、というのも十分納得のいく説明です。
パウロに特徴的なやり方として、「敵対者の用いる言葉に別の意味を含ませて逆用する」、ということがあります。
たしかにすべては許されているが、すべてが益をもたらすわけではないのです。
たとえどれだけ許されていることであるにせよ、人間がそのことの奴隷になってしまってはいけません。
とりわけパウロは姦淫の罪について警告しています。
ここでもこの「姦淫」(ギリシア語でポルネイア)という言葉の意味は、結婚前の性交渉のみではなく、第六戒を破るあらゆる行為を指しているのは明らかです。
  
パウロにとって、クリスチャンが結婚の外部で性的関係を持つのはまったくあってはならないことです。
クリスチャンは各々、「キリストの体」、すなわち「キリストの教会」の一員なのです。
ふたりの人間が性的に結ばれるとき、彼らはひとつの肉体になります。
これは結婚の偉大な奇跡です。
それに対して、「クリスチャンが町の娼婦と性的交渉を持ち、彼女を通してキリストに結ばれる」、というのはまったくありえない考え方です。
それゆえ、パウロは特に力を込めて、「教会員は婚外の性的関係をもって生活してはならない」、と教え命じています。
クリスチャンの身体は「聖霊様の神殿」です。
そして、そこには神様の聖霊様がお住まいになっているのです。
「どのように生きるか」は、人間が自分で決めるべきことがらではありません。
すべての根底には、キリストが教会を御自分の尊い血によって買い取ってくださった、という事実があるのです。
そのことはまた、クリスチャンに「罪と戦う義務」を与えるものでもあります。
   
私たちはこの箇所を正確に読むことが許されています。
「第六戒を破る罪だけが罪なのではなく、心の中だけで犯した躓きもまた神様の御前では罪過である」、と強調する人たちが私たちの周りにはしばしばいます。
たしかにパウロはこの箇所で、「姦淫の罪」を罪の中でも最悪の部類のものと言っているのですが、それにもかかわらず、これはまったく正しい指摘です。
私たちは聖書を「隣人の罪」についてのみあてはめて読む傾向があります。
その一方で、自分自身の罪は明るみに出されることがありません。
  
この箇所は私たちに対して重大な言葉を語っているのです。
結婚の価値は、私たちフィンランド人の間では、ひどくあいまいになってしまいました。
同棲婚や結婚前の性的関係は例外というよりもある種のお決まりにさえなってしまっています。
同じことがクリスチャンの間でも広まってきています。
家庭問題を扱うあるベテランの専門家は、「結婚していない人たちが誰とも性的関係をもてないのは、本当に神様の御心なのだろうか」、と公然と問いかけたことがあります。
神学者の中には、質問をするだけでは収まらない者もいます。
聖書の教えを無視するときに持ち出される常套の手段は、「聖書は法律書ではない」という理屈です。
結婚制度そのものが危機に瀕しているのは、何の不思議もないことです。
にもかかわらず、それは神様がお定めになった制度であり、それゆえ永遠に有効であり続けます。
「誰が御国を継ぐことができ、誰が継げないか」は、おひとり神様のみが宣言できることがらです。
私たちにできるのは、神様の御言葉を聴いて、それにしたがって悔い改めることだけです。
自分の罪を知っている弱い人たちに対して、神様は罪の赦しを惜しみなく与えてくださいます。
しかし、驕慢で自信満々な者たちは意外な結末に陥ることを覚悟しておきなさい。