2011年1月24日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章1~7節 

  
結婚は神様の御心でしょうか? 7章1~7節
 
再びパウロは、コリントの信徒たちが前に手紙で彼に書き送っていたと思われる質問の内容に触れています。
「結婚しないのが一番よい」と理解する人たちがいました。
パウロの目には、これから起こるクリスチャンに対する迫害が見えていました(7章26節)。
彼は「結婚していないこと」を価値のあるよいこととみなしています。
そして、自分が結婚していないことを「神様が彼に許してくださった恵みの賜物」ととらえています。
これはしかし、一般にも当てはまる規則ではありません。
普通の場合はどうであるか、パウロは疑問の残らない仕方で説明しています。
すなわち、人は皆それぞれ配偶者をもつべきなのです。
こうすることで、いわゆる「放埓な性的関係への誘惑」が減ります。
短く、的確で、美しい文章を綴りながらパウロは話を続けます。
この箇所は、クリスチャンの結婚倫理に関する大切な根拠のひとつとなっています。
配偶者には互いに相手の性的な欲求をみたしあう義務があります。
古典時代には理解しがたい瞠目すべきことは、パウロが夫と妻を平等な立場に置いていることです。
妻の身体は彼女自身のものではなく、彼女の夫のものです。
同様に、夫の身体も彼自身のものではなく、彼の妻のものです。
これは、神様が創造された男と女がひとつの肉、ひとつの生き物になることの論理的な帰結でもあります。
パウロは片方の結婚相手が自分ひとりで勝手に決めて修道僧や修道女になる誓いを立てることを否定しています。
そのようなことをしても、かえって自制を欠いた放縦な生活に流されてしまうだけです。
もっとも、一定の期間を定めて双方が祈りに集中できるようにすることは、べつにかまいません。
しかしその場合にも、二人がそろって一緒に決めるべきです。
しかもこのような約束事は、パウロが「これぐらいは認めてもよいだろう」と考えているということなのであって、「こうしなければならない」という命令ではないのです。
(大人の人間の)正常な状態は、結婚とそこで営まれる性生活です。