2011年1月10日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」6章1~8節 

自由の限界

「コリントの信徒への第一の手紙」6章


6章でもパウロはコリントの信徒たちに対して大鉈を振るっています。5章と6章は教会の現実の状態がどれほどひどいものであるかを、情け容赦もなく明らかにしています。これは、最初期の教会について私たちが抱きがちな美化されすぎた幻想を吹き飛ばしてくれることでしょう。


裁判官の前で 6章1~8節

コリントの信徒たちの間の諍いは、教会内部だけの問題としては収まりませんでした。
争いはこの世の司法機関による裁判に持ち込まれました。
そこでその裁判官が最終的な判決を下すのです。
これを聞いてパウロは激怒しました。
神様の教会でどうしてこのようなことが起こってよいものでしょうか。
なすべきことはわかっていました。
神様の御国では、誰も他の人から略奪してはいけないし、自分の権利に執着して裁判を起こすような真似をしてもいけません。
まったくもってひどいのは、クリスチャンの間の争いごとをこの世の司法機関に訴えて、クリスチャンではない人たちが裁定を下すような羽目になってしまったことです。
あるクリスチャンのことで苦情を述べなければならない場合には、どうしてそれを教会内で信頼されているクリスチャンに訴えないのでしょうか。
日常生活にかかわることぐらいについては、誰かちゃんとした信仰者が判断を下せるような「システムと共通認識」が教会の中にあるのが当たり前なのです。

パウロの目には、クリスチャンではない裁判官たちの判決によって争いごとを片付けようとする態度は、決して取るに足りない些細なことではありません。
このことに関しても他の場合についても、「愛する最後の日」、「世の終わりと最後の裁き」のことが彼の念頭にあったからです。
パウロは、「現代の私たちにとっては奇妙に聞こえるものの、当時のコリントの信徒たちにとっては馴染み深いテーマだったと思われることがら」を話し始めます。
「まさか知らないのですか」という言い方には、「聖徒たちがこの世を裁くようになる、ということはすでに皆が知っているはずです」、という含みがあります。
最後の裁きの時には、クリスチャンは裁きを行う側に参加するようになる、ということです。
イエス様は弟子たちに、彼らがイスラエルの12部族を裁くようになる、と約束されました(「マタイによる福音書」19章28節)。
パウロはこの御言葉を当然すべてのクリスチャンと全世界にもあてはまるものとして語っています。
さらにクリスチャンは、被造物の中で最も高みに位置している天使たちのことさえも裁くようになるのです。
このような眩暈がするほどすばらしい眺望からしてみると、コリントの信徒たちが自分自身で日常生活の問題さえ整理解決できないのは、パウロには本当に腹が立つことでした。
彼らは裁判官を必要としており、しかも、クリスチャンのグループの外部の人間を裁判官とするつもりなのです!

パウロの言葉を私たちの状況に照らし合わせるとき、いろいろなことをじっくりと考えてみる必要に迫られます。
フィンランドでは大多数の人が教会に属しています。
また、多くの裁判官は少なくとも形式的にはクリスチャンです。
一方では、裁判にかけられる人々も教会の会員であるケースが多いです。

こういうことに基づいて、「クリスチャンはこの点に関してはすっかり生活態度を改めたのだ」、と主張する人が出てくるかもしれません。
「今や、キリスト教会の内部で裁判事を処理できるわけだから」、と。
こんなことを言う人自身、実は屁理屈をこねているに過ぎないことを知っているはずです。
この聖書の箇所はいまだに現代にもあてはまる内容です。
それは、たとえ、フィンランドの国民の大部分が、形式的にはクリスチャンである場合でもそうなのです。
「神様の民」であるクリスチャンは、自分自身の権利を主張するときには、非常に慎ましくやり始めるべきなのです。
もしも争い合っている相手がクリスチャンである場合には、争いごとの調停はさらに慎重に、まったく別のやり方でその解決を模索していかなくてはなりません。
教会の中から、調停をうまくまとめる人々がでてこなければならないのです。
そして、牧師以外でも調停が上手な人がいれば、その人に任せればよいでしょう。
ただし、私たちの中には、いったいそのような人がいるのでしょうか。