2013年3月18日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章21~30節 「私はある」 イエス様の真のお姿


 
「私はある」 イエス様の真のお姿 82130
  
 
イエス様はこの世を去っていかれることについて話されます。
ところが、またしてもユダヤ人たちはイエス様の言葉を誤解します。
それは、
彼らがイエス様を侮っていたからではなく、
神様の光を見ることがまったくできなかったからです。
聴衆は、イエス様の教えの頂点とも言えるこの箇所を、
ユダヤ人同様、理解できませんでした。
ここで「ヨハネの福音書」は、他のどの箇所よりも明瞭に、
御父と御子とが一体であることを語っているのです。
  
旧約聖書の「出エジプト記」で、
モーセが驚いて神様の御名前を尋ねるシーンがあります。
その時、神様は次のようにお答えになりました、
「イスラエルの人々にこう言いなさい、
「私はある」という方が私をあなたがたのところに遣わされたのだ、と」
314節)。
そして、イエス様もこの箇所で、
御自分について翻訳が困難なこの御名前を用いておられます、
「「私はある」ということを信じないのなら、
あなたがたは自分の罪の中に死ぬことになります」
(「ヨハネによる福音書」824節後半)。
御父と御子が一体であることを理解しない者は、
罪のゆえに死に支配されます。
この一体性を理解する者は、
御子が世の光として御父の御許から来られたことを信仰告白し、
罪の赦しを見出します。
イエス様の本質を信仰告白する人もいれば、
それを見ないで否定する人もいます。
イエス様の「この世を去られること」と「挙げられること」とを
どのように受け止めるかも、
イエス様の本質を理解しているかどうかによってちがってきます。
キリストと神様の一体性を否定する人は、
「キリストがこの世を去られること」を、
神を侮辱する者の死として見るだけですし、
「キリストが挙げられること」を、
天下の極悪人が万人の侮辱を受けるべく十字架にかかることとして
とらえるにすぎません。
御父と御子の一体性を見るように神様から目を開いていただいた人は、
「イエス様がこの世を去ること」が、
御父の栄光の中に御子が入られることであると理解して、
イエス様の十字架を大いに誇るようになります。