2013年3月8日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 7章37~52節 渇いている者に命の水を!


 
渇いている者に命の水を! 73752
  
 
仮庵の祭は、その最終日に最高潮を迎えます。
その時に人々は普段以上に
「終わりの時」をめぐる多様な思いにとらわれたことでしょう。

ここで、活きた水に関する「ぜカリヤ書」の御言葉(148節)
を思い出しましょう。
祭における水の儀式の際には、
次の「イザヤ書」の御言葉が読まれたものと思われます、
「あなたがたは喜びをもって救いの井戸から水を汲むことができます」
123節)。
これが、イエス様が公けに話された内容の背景にあったことです。
「もしも渇いている人があれば、私のもとに来なさい。
私を信じる者はそれを飲みなさい。
(旧約)聖書にも言われているように、
その人の中から活きた水の流れがあふれ出すようになります」
(「ヨハネによる福音書」737節)。
イエス様は御自分を「活きた水の源」とみなしておられるのです。
この「活きた水」は聖霊様のことを指している、
「ヨハネによる福音書」は明確に告げています。
  
イエス様が「終わりの時に到来するはずのメシア」であるかどうかについて、
ユダヤ人たちが互いに意見を戦わせる様子を、
「ヨハネによる福音書」は実に見事に活写しています。
イエスは「例の預言者」なのか(「申命記」1818節)、
それともメシアなのか、
あるいはただのペテン師なのか。
「ルカによる福音書」や「マタイによる福音書」とは異なり、
イエス様がベツレヘムでお生まれになったことを
「ヨハネによる福音書」は明記していません。
イエス様の反対者たちは、
イエス様がベツレヘム出身ではなかったという「情報」に基づいて、
イエス様がメシアであることを否定しにかかります。
これは、開放的な魅力にあふれた「ヨハネによる福音書」が、
一方ではキリスト信仰者の間だけで密かに読まれることを
前提として書かれている点とも関係があるのかもしれません。
キリスト信仰者である「ヨハネによる福音書」の読者たちは、
上に挙げたユダヤ人の「情報」が間違いであることを
当然知っていたはずだからです。
  
この箇所の終わりには、興味深く重要な話し合いが出てきます。
ニコデモは、イエス様に反対するユダヤ人たちの態度に対して
「疑問」を呈し批判しました。
彼らがニコデモにどう答えたかは重要です。
当時のガリラヤはユダヤ人たちの蔑視の対象でした。
「ガリラヤ出身の預言者が現れる」という予言が存在しない以上、
イエスは偽メシアである、というのです。
この考え方に対して、イエス様は
812節以降での教え(「イエス様は世の光」)の中でお答えになります。
(旧約)聖書は、
ガリラヤ出身の預言者については沈黙しているとしても、
一方では、ガリラヤと光とを互いに結び付けて記述しているのです
(「イザヤ書」823節~96節)。