2011年4月6日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」12章4~11節 

 
  
多様な御霊の賜物 12章4~11節
    
「恵みの賜物」は多様であり、様々な人に与えられるものです。
それにもかかわらず、それらすべての背後には、神様の聖霊様がおられます。
この方は、ある人には信仰を、またある人には癒しの賜物を、またある人には預言する賜物を、またある人には異言の賜物を分け与えてくださいます。
御霊の賜物のなかには、奉仕の職も含まれています。
すべての賜物は教会の益となります。
この箇所は、「たとえ賜物は多種多様でも、それらはすべて神様から発しており、教会の最善を考えて与えられている」、ということをコリントの信徒たちが見て理解するために書かれています。
賜物のうちのどれも拒むべきではないし、それらを互いに争わせるべきでもありません。
  
パウロは説明を加えずに多くの「恵みの賜物」をリストアップしています。
コリントの信徒たちには周知のことだからです。
しかし、現代の私たちはよく知らないわけですから、この賜物のリストをざっと概観する必要があるでしょう。
8節における「知識」とは、明らかにコリントの信徒たちが重視した知恵と知識のことをさしています(1章1~4節を参照してください)。
「信仰」が恵みの賜物のリストのなかに入っているのは理由があります。
信仰もまた、人間の懸命な努力によって生み出されるものではなく、神様の賜物だからです。
「癒しの賜物」については説明を要しないでしょう。
「力あるわざ」とは、一般的に奇跡のことを指しています。
「預言」とは、人が神様から他の人々に伝えるためのメッセージを受け取ることです。
この賜物はもうひとつの「教える賜物」とは区別しなければなりません。
預言はカリスマ的な性格のものだからです。
「霊を見分ける恵みの賜物」とは、いつ悪霊が話しており、いつ聖霊様が話しているか、を区別できる能力のことであるのは明らかです。
「異言を話す賜物」は、人間が話す言葉ではないような特別な言葉によって、クリスチャンが神様に祈り、神様を賛美することを意味しています。
このような異言は他の人々皆にとっても、話している当人にとってさえも理解不可能なものです。
それを理解できるのは、「異言を解き明かす恵みの賜物」が与えられている人だけです。
このような人は、異言を話す人と他の人々との間の通訳者として働くことができます。
 
4~6節は、御父、御子、御霊としての神様の深遠性を探っています。
注目するべき内容です。
これらの節を読む人は、すべてが同じパターンで構成されていることに気づくことでしょう。
「御霊、主(イエス様のこと)、神様」が恵みの賜物の背後におられます。
新約聖書で「聖なる三位一体性」について直接教えている箇所は、それほど多くありません。
いくつかの箇所、たとえば洗礼命令(「マタイによる福音書」28章18~20節)には聖三位一体性が明瞭に示されています。
にもかかわらず、多くのことがらは「神様の奥義」として手付かずのまま残されています。
ともあれ、エホバの証人たちが言っていることとは異なり、聖三位一体性は完全な真理です。
それを否定する三位一体反対論者になる者は、クリスチャンではありません。