2011年4月8日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」12章12~13節 

   
「キリストのもの」であるための基準 12章12~13節
    
今パウロは、「キリストのもの」である人々が主の身体をどのように構成しているかについて、実に驚くべきやり方で語り始めます。
この教えは多くの聖書の箇所に出てきます(たとえば、「ローマの信徒への手紙」12章、「エフェソの信徒への手紙」5章など)。
ここでいう「身体」とは、死体ではなく、生き生きと活動している体のことです。
クリスチャンひとりひとりがこの身体の構成員です。
クリスチャン全員が一丸となって行動するとき、この生きて活動しているもの(キリストの身体なる教会)は、この世の中で自分の使命を果たします。
キリストに属するための基準は、人間の能力や優秀さではなく、あるいはその人に与えられている賜物でもありません。
「キリストのもの」となり、この方の身体の構成員となるのは、聖なる洗礼においてです。
洗礼において、聖霊様は人間を、その人の民族的あるいは社会的な立場を一切無視して、キリストへと結びつけ、キリストの構成員としてくださいます。
ここにクリスチャン同士の平等性の基盤があります。
しかしこの平等性は、皆に同じ賜物と同じ使命が与えられている、という意味ではありません。
御霊が各人にそれぞれ違った賜物と使命を与えてくださっているのは確かです。
しかし、人は洗礼を通してキリストに結び付けられ「キリストのもの」となっている、という点では皆平等なのです。
それゆえ、教会では誰も他の人よりも自分が「劣っている」と感じる必要はないし、それとは逆に、「優れている」と思い上がってもいけないのです。