2011年4月11日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」12章14~31節 

   
キリストの身体の働き方 12章14~31節
    
キリストの中へと洗礼を受けている人は皆、キリストの身体の構成員であり、一人一人にそれぞれ使命があります。
今パウロは、人の身体も同一の部分のみから構成されているわけではない、ということを指摘します。
「手もあれば足もある。耳もあれば鼻もある。それらにはすべて独自の役割があります。もしも人が足ばかりだったら、生きるのは難しいことでしょう。それゆえ、神様は人にちょうどよい数の身体の諸部分を与え、行うべきことをすべてちゃんと行えるようにしてくださったのです」、と。
これと同じことが教会にも言えます。
教会員にはそれぞれ役割があります。
私たちが皆互いに異なっているのは、大いなる豊かさの証拠です。
もしも私たちが皆同じようだったとしたら、私たちは何か大切なことをしないまま、あるいは見ないままになってしまったことでしょう。
人の身体では手が足に対して反抗してはならないのと同じように、キリストの教会でもクリスチャン同士が争い合ってはならないのです。
素晴らしい役割を果たしている人に対して、他の誰も劣等感を抱く必要はありません。
それと同様に、誰も他のクリスチャンを見下してはなりません。
たとえ人間的にはそうするのがどれほど当然に思える場合であっても、それはいけないことです。
神様の御前では、私たちは皆同一線上に並んでいる、神様の愛する子供なのです。
むしろ私たちはお互いの成功を共に喜び、不幸を共に悲しむ姿勢を学ぶべきです。
まさにこのような姿勢で、私たちは自分自身の体に対しても接しているわけですから。
目にゴミが入ると、足が人間を鏡の前に連れて行き、目からゴミを取り除くために手があらゆる手段を講じます。
教会でもこのように活動できるよう、努めるべきです。
 
神様が教会に、ある者たちを使徒として、またある者たちを預言者として、また他の者たちを教師として任命してくださったことは、神様の賜物にほかなりません。
  
さらに神様は、教会の職制の他にも様々な恵みの賜物を豊かに与えてくださいました。
これらの賜物を一人で全部もっているクリスチャンは誰もいないし、またその必要もありません。
皆が使徒である必要はないし、皆が異言を話す者であったり、預言者であったりする必要もありません。
私たちの救いの基礎は、恵みの賜物ではなく、キリストのみであり、その十字架のみなのです。
 
この最後に述べたことは徹底して強調されなければなりません。
私たちの時代には、霊の力と特別な恵みの賜物に人々は不思議がり驚いています。
このこと自体はよいのですが、そこにはしばしば、不健康な現象が付随しています。
なによりもまず問題なのは、特別な恵みの賜物をもっていないクリスチャンは、それをもっているクリスチャンに対して、劣等感をいだくようになることです。
また、特別な恵みの賜物をもっているクリスチャンは、神様の御霊の力を他のクリスチャンたちよりもよく知っているという理由から、知らず知らずのうちに彼らを見下すようになるでしょう。
ここで第一に強調するべきことは、救われるためにクリスチャンはどのような特別な恵みの賜物も必要としない、ということです。
キリストとその恵みで十分なのです。
私たちがキリストの教会に属しているのは、自分自身の優秀さのゆえではなく、私たちが受けた洗礼のゆえです。