2009年10月26日月曜日

マルコによる福音書について 15章33~41節

暗闇の瞬間と一瞬の輝き 15章33~39節

第6時ごろ、つまりお昼ごろから3時間にわたって、地上を暗闇が覆いました。ここに、おそらくイザヤ書の「私は黒い衣を天に着せ、悲嘆の荒布でそれを覆います」(イザヤ書50章3節)という予言との関係をみてとることができるでしょう。イエス様は十字架上で皆から見捨てられ、たったひとりで叫ばれましたが、それを聞いた者は間違って理解しました。イエス様はエリヤに助けを求めて叫ばれたのではなく、詩篇22篇を引用されたのです。詩篇の最初の数節を引用することは、その詩篇全体を引用することと同じでした。この詩篇22篇を読むことで、イエス様を侮辱する者たちの視線には映らなかった十字架上での出来事の本当の意味を理解することができるようになります。神様の義なる僕を、主は貶めて見捨てられ、神様をないがしろにする者たちの手に渡されたのです。しかし、苦痛を訴える僕は、窮地にあっても愚痴をこぼしたり信仰を失ったりはしません。彼は惨めな者の苦難を侮らず、助けを求める叫びを聞いてくださる神様に感謝します。苦しんでいる僕を神様が助けてくださるとき、主は全世界からの賛美を受けられます。イエス様は死にます。しかし、憤激する失敗者としてではありません。イエス様はたしかに私たちのせいで神様から見捨てられたのですが、死ぬときに神様をのろったりはなさいませんでした。御自分を死の瞬間にもお父様の御手にゆだねられ、神様の力に信頼なさいました。神様の与えられた「しるし」として神殿の幕が真っ二つに裂けました。それは、もはや異邦人とユダヤ人とを分け隔てる必要はないことを象徴する出来事でした。今や神様への道が開かれたのです。イエス様の受難と死の瞬間は、マルコによる福音書の頂点です。まさにこの頂点で、神殿の幕のほかにも「裂かれたもの」があります。長い間幾度も読者には理解しがたいままとして隠されてきた「メシアの秘密」が、ついにあきらかにされました。残酷な十字架刑の執行責任者であったローマ兵は、イエス様が死ぬのをみて、「この方が神様の御子である」と告白します。イエス様が神様の御子として知られるようになったのは、まさしく「十字架につけられ屈辱的に殺されたお方」としてでした。このようにイエス様は、人とはかかわりのない神的存在とか幽霊とかではなく、全世界の罪を帳消しにするために御自分のいのちを従順に死に渡された、お父様に忠実な御子でした。