2009年10月8日木曜日

マルコによる福音書 第14回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

主イエスは聖餐式を設定なさいました。その設定辞がはっきりと告げているように、聖餐式でイエス様は、パンとぶどう酒と共に、御自分のまことのからだを食べ物として、御自分のまことの血を飲み物として、私たちに本当に与えてくださいます。これは死なれる救い主が、この地上の御自分の教会のため、また私たちのためにしてくださった聖なる遺産です。それはイエス様が遺してくださった本当に不思議な、恵みゆたかな、神的な規定です。「不思議」だというのは、それを理性は理解しないからです。「恵みゆたか」だというのは、ここには恵みしかないからです。「神的」だというのは、この遺産の内容が神様のひとり子の肉と血だからです。神様だけがこのような規定を遺すことがおできになります。人間の世界でも、親は子供のために遺言状をつくり、彼らにこの世でのはかない残り物である資産の権利を譲ります。それに対して、私たちの神様、主イエス・キリストは、私たちのために苦しみを受けて死んでくださったときに、私たちに遺産として、金や銀やその他の資産ではなく、消えることのない永遠の天の宝を遺してくださったのでした。その宝とは、キリスト御自身にほかなりません。つまり、キリストのまことのからだという食べ物と、まことの血という飲み物です。私たちはこれよりよいものを願い求めることができるでしょうか。

このような贈り物、このような遺産を、万軍の神様、天の主からいただくことを、誰も願う勇気などはなかっただろうし、ましてひとりとして思いもよらなかったことでしょう。「真の神様」でも「真の人」でもある主イエスは、この聖餐式で御自分を遺産として私たちにあたえてくださいます。ここに私たちは主を見出し、ここに主はまるごと「私たちのもの」となってくださいます。主のまことの体と血とがあるところには、主御自身が神性の面でも人性の面でも完全に臨在なさっています。唯一の分離し得ない位格(ペルソナ)の中で、主の神性が主の人性に永遠に最も緊密に結びついているのと同様に、私たちは聖餐式で、キリストを、神様としても人としても、本当にまるごと受け取っているのです。ここには、たんなる人間の肉と血があるばかりではありません。それらは私たちの役にはまったく立ちません(「肉は何の役にも立ちません」(ヨハネによる福音書6章63節))。ここには、神様の御子の体と血があるのです。それらは死んでいたり、無力だったりはしません。逆に、それらは霊と命に満ちあふれています。

大いなる奇跡であり恵みに満ちた神性が、この遺産なのです。それについてすべてのクリスチャンは喜びなさい。神様に感謝して、それを用いなさい。それによって、あなたがゆたかになり、永遠の救いをもたらす慰めをいただくためです。

フレドリック・ガブリエル・ヘドベルグ 「救いへといたる唯一の道」