2013年5月29日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 12章12~19節 エルサレム入城



エルサレム入城 121219
 
  
イエス様がエルサレムに来られるシーンでは、
「ヨハネによる福音書」における描写は
他の三つの福音書と共通しています。
主は王様のような歓迎を受けました。
ロバをイエス様の御許に連れてくる行為は、
「ゼカリヤ書」99節の預言と直に関連しています。
これまでにも私たちは、
「ゼカリヤ書」と仮庵の祭との間には
直接的な相互関係があることを見てきました。
「ヨハネによる福音書」の記す「棕櫚の枝」は、
まさに仮庵の祭に関係するものであり、
「ゼカリヤ書」の引用と相まって、
ここでのすべての出来事を、
イエス様が王様としてエルサレムに入城されたことに結びつけています。
ここにおられるのは、長く待望されてきたイスラエルの王なのです!

突然の大騒ぎに「何事か」と興味を抱いた群集が
イエス様に歓声を送った人々の中に合流して行くにつれて、
黒々とした暗雲が次第に立ち込めるようになります。
「人の子が挙げられる時」が、間近に迫ってきています。

2013年5月27日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 12章1~11節 香油の無駄遣い?


  
香油の無駄遣い? 12111
 
  
ベタニヤでの食事の折に驚くべきことが起こります。
すべての福音書が語っている女、
「ヨハネによる福音書」ではマリアと呼ばれているこの女は、
誰にも断らず、不意にイエス様の上に高価な香油を注ぎかけたのです。

香油は量的には約0.3リットルほどであり、極めて高価なものでした。
男が一日の仕事で得る賃金はデナリでした。
ということは、
男の一年分の賃金に相当する価値の香油が
一瞬にしてイエス様の上に注がれてしまったことになります。
すべての福音書は共通して、
弟子たちがこの浪費に憤ったことを伝えています。
この香油で得るお金を貧しい人々に分けることもできたはずだからです。

イエス様は「申命記」1511節を引用しつつ、
この弟子たちの女に対する詰問を斥けて、マリアをかばいます。
香油の注ぎかけには明らかに二つの意味がありました。
まもなくエルサレムに入城されるイエス様を
王として宣言する油注ぎの儀式だった、ということと、
まもなく死ぬことになるイエス様の身体が墓に収められる
準備のための高価な油の塗布だった、ということです。

この段階でイエス様の受難の歴史に登場してくるのが、
イスカリオテのユダという悲劇的な人物です。
「ヨハネによる福音書」は神様の御計画の深淵を描き出しており、
このユダについても、
他のいかなる教会の教師たちよりも巧みに、またおぞましく活写しています。
このユダの役割は、はじめから明確でした
(「ヨハネによる福音書」67071節)。
実は、その遥か以前からすでにそう決まっていたとも言えます
1712節の「滅びの子」という表現)。
イエス様を裏切るためにユダが皆のもとを出て行った時ほど、
夜が深い暗闇に覆われたことはなかったのではないでしょうか
(「ヨハネによる福音書」1330節)。

2013年5月24日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 12章 エルサレムへ



エルサレムへ

「ヨハネによる福音書」12


「ヨハネによる福音書」12章の冒頭の言葉
(「過越しの祭の六日前に」)は、
この章の出来事が来るべき出来事(イエス様の死と復活)に
関連していくことを印象付けています。
今までにも、ゴルゴタへの道を示すシーンはたくさんありましたが、
「ヨハネによる福音書」は、
ここからイエス様の受難の道筋を本格的に描写していくことになります。
  
イエス様の受難と復活を語るときに、
「ヨハネによる福音書」は、
他の三つの福音書とは異なるやり方で出来事を描写しています。
他の福音書には語られているのに
この福音書にはない事柄もたくさんあるし、
この福音書でしか語られていない
新しい事柄もたくさんあります。
このような相違にもかかわらず、
四つの福音書は内容的な一致を保っています。
「ヨハネによる福音書」は、他の三つの福音書を見事に補完しています。

2013年5月22日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第11回目の終わりのメッセージ


   
終わりのメッセージ
   
  
フィンランドのある牧師は、
信仰について自ら公に告白し、
また他の人にも尋ねる勇気に満ちていたことで有名でした。
戦時中、彼は見張りに出ようとしている兵士たちに、
「もしも今弾が頭に命中して死ぬことになったら、
あなたは天国の門のところでどうなるのか」、
と質問するのが常でした。
数え切れないほどの人々から敬愛を受けたこの牧師の勇気は、
戦争が終わって平和な時代が訪れてからも
衰えることがありませんでした。
  
ある時、彼はタクシーに乗り込みました。
座席に座ったのもつかの間、車がまだ動き出さないうちに、
彼はさっそく運転手に、
「あなたはイエス様を信じていますか」、
と尋ねました。
「私はこういう牧師の話には興味がない」、
と男は答えました。
牧師は車から飛び出し、周りにいた人たちにこう叫びました、
「これはひどい!この車には死人がいる!」。
  
「ヨハネによる福音書」11章のメッセージは明瞭です。
「人が活きている」という確かな証拠は、
呼吸や心臓の鼓動ではありません。
イエス様を信じている人は、活きています。
信じていない人は、実はすでに死んでいます。
その状態は、その人がキリストを見出すまで続きます。
イエス様だけが、
罪の赦しと命を賜る神様との絆を与えてくださいます。
キリストとその愛を拒む者は、霊的に死んでいます。
その人にとって、この世での死はたんに、
終点や、棺に打たれる最後の釘のようなものです。
  
死ぬ瞬間までは、命への扉は開かれています。
死の訪れと共に、その扉は最終的に閉ざされます。
イエス様の十字架の御許では、
命への扉がすっかり開けられています。
 
イエス様はこう言われています、
「私はよみがえりであり、命です。
私を信じる者は、死んでも活きることができます。
活きて私を信じている者は、誰一人決して死ぬことがありません。
あなたはこれを信じますか」
(「ヨハネによる福音書」112526節)。
 

2013年5月20日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第11回目の質問(11章)



「ヨハネによる福音書」11

11回目の質問
  
 
イエス様はラザロを死者の中からよみがえらせました。
この出来事の核心ともいえる問題は、
本当の意味で活きているのは誰で、死んでいるのは誰か、
ということです。
  
  
1)イエス様は、
ラザロ病気の報を受けてもすぐには出発なさらず、
ラザロのことで気をもむ人々と共に、
時が熟するのを忍耐強く待たれました。
その後でイエス様は、
誰も夢想だにしなかったような大いなる奇跡を行われました。
あなたは、
神様の導きと教えを受けて過ごしてきた
今までの信仰生活を振り返った時、
ラザロの復活の出来事のように、
長く待たされた後で大きな奇跡を経験したことがありますか。
神様が定められた時まで待ちつづけるのは、
あなたには難しいことですか。
    
2)9節で、
イエス様が言おうとなさっているのはどのようなことでしょうか。
  
3)1116節に基づいて、
弟子たちは状況の推移をどのようにとらえましたか。

4)聖書のどの箇所に、マルタとマリアは登場していますか。
彼女たちはどのような女性として描かれていますか。
マルタがここで登場するのは、どの点でふさわしいと言えるでしょうか。
   
5)なぜイエス様は泣かれたのでしょうか。
    
6)カヤパは不信仰な大祭司でした。
にもかかわらず、彼は大いなる真理を語りました。
すなわち、
イエス様はすべての民のために死なれる、
ということです。
現代においても、
誰かが、我知らず、また自分の意志に反して、
神様の御計画を進めることに一役買っている場合があるでしょうか。
 

2013年5月16日木曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 11章45~57節 殺害計画



殺害計画 114557

 
イエス様のなさった最大の奇跡、死者の復活は、
人々の間に驚きと信仰を与えただけではありません。
まさにこの奇跡は、
あるグループにあることを実行に移す決断を下すきっかけともなったのです。
ユダヤ人の意志最高決定機関である大議会が召集され、
「どのような犠牲を払うことになろうとも、
イエスの活動を阻止しなければならない」、
と決議しました。
 
暗闇に覆われた状況下でも、神様の御霊が働いておられます。
イエス様の敵対者たちの悪意にみちた言葉の中にも、
神様の御計画が隠されています。
大祭司カヤパの悪行も、
神様が彼を通して語られるのを妨げることはできません。
カヤパが言ったとおりに、
他の誰も死ぬ必要がなくなるために、一人が死ぬことになるのです。
しかも、この死は、
イスラエルの民だけではなく、
全世界の人々にも関係があるのです。
今や決定が下されました。
最後の派手な幕切れまでの準備がすべて整いつつありました。
「イエス殺害計画」が立てられたのです。
次章からは、イエス様の歩まれた受難の出来事が記述されていきます。