2012年2月29日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 9章1~12節 第五のラッパ(その2)

 
第五のラッパ 9112節(その2)
  
 
イナゴは五ヶ月の間、跳梁跋扈し、人々に苦痛を加えることを許された、
とヨハネは聞きます。
「五ヶ月」という期間は、
イナゴに与えられている時間が限られたものであること意味しています。
何時イナゴが暴れ出し、何時その騒乱が収まるかは、
神様が決めておられます。
悪には、神様が定められた時間が与えられています。
神様は全能であり、世界の出来事は神様の決定に基づいて進行します。
  
人々はイナゴの攻撃で苦しめられます。
にもかかわらず、人々は悔い改めて神様に助けを求めたりはしません。
彼らはただ死を望むばかりです。
しかし、その死は彼らには与えられません。
人類に降りかかる悪には、それでもよい目標があります。
神様が人々を様々な方法で揺り動かされるのは、
それにより、できるかぎり多くの人が
活きておられる神様と救いとを見出すようになるためなのです。
おそらく、まさにこうした理由から、
神様は人々がこの段階で死なないようになさるのでしょう。
死は「恵みの時」[1]の終わりを意味します。
神様は、人々が救い主への信仰をもたないまま死ぬことを、望まれないのです。
  
710節でヨハネは、
彼が目にしたイナゴがどのようなものか、描写しています。
その形状に現代の戦車や戦闘機を読み取る人々がこれまでいました。
ヨハネが幻の中で現代兵器による戦争を目撃したというのは、
ありうることです。
もちろん悪魔は、その活動手段として、
滅びをもたらすあらゆることを利用するでしょう。
しかし、より真実に近いと思われる解釈は、
イナゴは、
イエス様の再臨の前に世界を騒乱に陥れる悪魔的な諸力をあらわしている、
というものです。
それらの力は強大で、それゆえ恐るべき悪魔の手先であり、
世界を破壊し、地上の住民に苦痛を与え、あらゆるしわざを仕組んできます。
そうすることで、それらは
人々を神様からできるかぎり遠ざけてしまおうとします。
それらは具体的には、
思想であったり、支配者であったり、他の諸力であったりします。
悪魔はそれらのものを、神様や神様に属する人々に対する戦いに利用します。
これらの諸力は、神様が許される限りにおいて、
世界に争乱を巻き起こすことが許されています。


[1] 罪を悔いイエス様を信じることがまだ可能な期間のこと(訳者註)。

2012年2月27日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 9章1~12節 第五のラッパ(その1)

  
「ヨハネの黙示録」9
  

第五のラッパ 9112節(その1)
   
  
第五の天使がラッパを吹きます。
ヨハネは天から地に落ちた星を見ます。
これは悪魔そのものを指していると思われます。
「イザヤ書」には、空から落ちた「明けの明星」が出てきます(1412節)。
これはバビロンの王だけではなく、
手下たちと共に下に投げ落とされた悪魔自体を意味している、
と古くから考えられてきました。
それからヨハネは、神様の敵に「深淵の鍵」が与えられるのを見ます。
「与えられた」という受動態は、「神様の働き」を示しています。
すなわち、神様が悪魔にその鍵をお与えになったことを意味しています。
「神様の悪魔」という表現を用いたルターは正しかったのです。
結局のところ、悪魔は自分の権力を持ってはいないからです。
悪魔は、神様が定められた限度内で活動します。
神様は全能です。
それゆえ悪魔の活動も、
神様が実現を許されることと妨げられることとに、
左右されています。
  
聖書は世界を象徴的に三つの層に分けています。
上には天国と神様の御住い、
地上には生きている人間たち、
地下の深淵には悪の巣窟と神様の敵の王国があります。
天から落ちた星は、深淵を開いて、
悪の諸力を外部に開放してしまいます。
太陽の光を覆う煙とイナゴとは、
地上で悪が猛威を振るう様子を描いています。
4節は、
悪魔の活動には神様のお定めになった限界があることを、
再び示しています。
すなわち、神様は御自分に属する人々を悪魔のこの攻撃から守られます。
悪魔は今、
「印を受けている人々」、すなわち「神様のもの」である人々に
触れることが許されていません。
 

2012年2月23日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 8章6~13節 最初の四つのラッパ(その2)

  
最初の四つのラッパ 8613節(その2)
  
 
イエス様の再臨の前に何が起きるか、
そのすべてを私たちは知りません。
「裁きの日」が来る前に、
世は様々なやり方で打ちのめされる、
と「ヨハネの黙示録」は語っています。
このようにして神様は
人々に語りかけておられるわけです。
私たちはあまりにもかたくななので、
神様の優しい語りかけに耳を貸そうとはしません。
それで、神様は厳しい処置を取らざるを得なくなるのです。
しかし、これは神様の恵みであり、愛なのです。
神様は、
誰も死んで地獄に落ちることがないように、
と望んでおられます。
神様は私たちを
よいことと悪いこととを通して御許に招いてくださいます。
  
11節は近年話題になった箇所です。
ここでチェルノブイリの原子力発電所の事故(1986年)のことが想起されます。
「チェルノブイリ」という名はウクライナ語に由来し、
「ニガヨモギ」という意味です。
それで、チェルノブイリの原発事故で
「ヨハネの黙示録」の「ニガヨモギ」という名の星に関する予言が実現した、
とさえ言われることがあります。
しかし、それは言い過ぎでしょう。
チェルノブイリの原発事故は小規模の災害に留まりました。
汚染された水の量も「三分の一」をはるかに下回りました。
にもかかわらず、
チェルノブイリの災害には「ヨハネの黙示録」と何らかの関係があります。
ほかでもない「ニガヨモギ」という名の原子力発電所が
放射能汚染を周囲の環境に撒き散らしたのは、
たんなる偶然ではありません。
「ヨハネの黙示録は真実だ」というしるしを
神様が与えてくださったのだ、
と(少なくとも)私自身は信じます。
神様が災害の発生を許されるのは、
人々がはっと我に立ち帰って、
活きておられる神様とその御心を捜し求めるようにするためなのだ
と思われます。

2012年2月20日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 8章6~13節 最初の四つのラッパ(その1)

 
最初の四つのラッパ 8613節(その1)
  
 
七人の天使が一人ずつ順番にラッパを吹いていきます。
そして、ヨハネに幻が示されます。
封印の幻とラッパの幻は互いに結びついています。
ラッパの幻は、
すでに第六の封印の箇所で語られたことに関する
一層正確な描写だと思われます。
それらは
世の終わりの有様、
イエス様の再臨の直前の出来事を描いています。
  
ラッパが鳴り渡る時に、
ヨハネは衝撃的な光景を目の当たりにします。
天から雹や火が降り注ぎ、
自然は死滅し、
海は汚染され、
星が空から落ち、
太陽も月も光を失い、
大地は揺り動かされます。
これがどの程度まで象徴として語られたものか、
私たちは知りません。
確かに人間は、
海の生き物を殺したり、
地球の一部を丸ごと焼き払ってしまえるような
恐るべき手段を発明しました。
もしかしたら、
キリストの再臨の直前に、
人間のこれら発明品の数々が人々の手に負えなくなり、
世界を破壊することになるのかもしれません。
あるいはまた、
神様が、
前代未聞の大災害により、
そのありとあらゆる手段を通じて
世界を完膚なきまでに打ち砕かれる、
ということなのかもしれません。
 

2012年2月16日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 8章1~5節 嵐の前の静けさ

  
ヨハネの黙示録8
  
嵐の前の静けさ 815
  
 
ついに第七の封印が開かれます。
ところが今回は、
今までの六つの封印を解いた時とは異なり、
何も起きません。
天国は完全な静寂に包まれ、それは半時間続きます。
おそらくこの静けさは「待つこと」をあらわしています。
天国にいる者たちは、次に何が起きるか、息をひそめて見守っています。
神様の裁きがもうすぐ下されることを彼らは知っており、
静けさの中で裁きの時を待っているわけです。
まさに、「嵐の前の静けさ」です。
    
この静寂が止んで、ヨハネは七人の天使を見ます。
それからさらにもう一人の天使を目にします。
この第八の天使は香炉をもっており、
香を聖徒たちの祈りに加えた、
とヨハネは語ります。
同じことがすでに前にも語られています(「ヨハネの黙示録」58節)。
「聖徒たち」とは、地上で生きている神様に属する人々のことです。
天使は私たちの祈りに、かぐわしい香を混ぜます。
それから、私たちの祈りは神様の御許へと昇っていきます。
これは、
私たちの祈りが天国で聴かれる、
ということを私たちに保証するものです。
たとえ私たちが下手に祈ったとしても、
神様の天使は私たちの祈りに香を加えます。
そして、この香が
私たちの祈りを神様に受け入れていただけるものにします。
   
それから、天使は
香炉を祭壇の火で満たし、それを地上に投げ入れます。
その結果、雷鳴が鳴り響き、稲妻が光り、大地が震えます。
この天使の行為は、
七人の天使がラッパを吹いて世界が揺り動かされる時が
すぐそこまで来ていることを、示しているのでしょう。
香炉を投げる行為は、
神様に属する人々の祈りがちゃんと聴かれており、
今神様は長い間人々が願ってきたことを実現なさる
ということを想起させます。
イエス様が速やかにこの世に戻ってこられるように、
神様が世の悪をなくされ、
御自分を全能者として公に示してくださるように、
と神様の教会は祈り続けてきました。
七つのラッパの幻は、
これらのことが今ようやく実現しつつある、
ということを描いています。
それらのことが起きる前に、
神様はすべての人間を揺り動かして、御許に招かれます。
このことも、七つのラッパは伝えているのです。
  

2012年2月13日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第5回目の終わりのメッセージ

   
終わりのメッセージ
    
   
空気の清浄化
  
私は30年以上もヘルシンキのメイラハティというところに住んでいます。
この地域にはたくさんの木が生えています。
私の部屋の窓の前にもあります。
それらの木はだいぶ前からだめになってきました。
梢が死んで、成長も止みました。
枯れた木が何本も切り倒されました。
ところが、
この地域の家々が遠隔温暖装置を使用するようになると、
いままで家々の暖房装置が撒き散らしていた
汚い空気がもうでてこなくなりました。
今では松の木はまた以前のように良い状態になってきました。
成長は続き、自然は受けた傷を直しています。
  
私たちの中にも汚れた空気があります。
命を新たにし清める力、
神様の御言葉を拒絶して、
個人や団体の生活から追い出してしまうと、
その人の状態は悪くなります。
神様なしの生活は悪化の一途を辿ります。
私たち自身の中から立ち上る汚染は
真の成長を妨げ、命を台無しにします。
これを明るみに出すのが真理の御言葉です。
また、御言葉は感情をきれいにし、新しい力を与えてくれます。
  
悪い空気の中に留まらないようにしなさい。
神様の御言葉と恵みに対して心を開きなさい。
   
 
(ラウリ コスケンニエミ 「恵みは近くに」)

2012年2月10日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第5回目の質問(6~7章)


5回目の集まりのために

「ヨハネの黙示録」67
  
 
イエス様は巻物のはじめの六つの封印を解かれました。
封印が解かれるたびに、ヨハネは幻を見ます。
それらの幻は、
罪に堕落した世における生活がいかなるものか、
おぞましく描き出しています。
それらは人間生活の一般的な描写なのです。
おそるべき描写の後に、ふたつの励まされる幻がつづきます。
それは、印を押されている144000人の人々と天国の様子についての幻です。
  
 
質問

1)封印の幻は何を意味していますか。6章の説明を参照してください。
  
2)世の邪悪さについて、神様には責任があるのでしょうか。
それについて、神様は責められることがありますか。
誰が神様を責めるような真似をしていますか。
  
3)なぜ神様は、
これほど多くの悪が行われるのをお許しになっているのでしょうか。
なぜ神様は、
終末の時に特別に厳しい嵐が世を襲うようになさるのでしょうか。
   
4)誰が、神様の怒りの大いなる日に耐え抜くことができますか(617節)。
  
5)印を押された144000人の人々は、何を表していますか
718節の説明を参照してください)。
印を押されている人は誰ですか。
あなたは印を押されていますか。
  
6)神様は御自分に属する人々をお守りになります。
それにもかかわらず、
どのようなことが神様に属する人々に起こりえますか。
また、どのようなことは決して起こりえないでしょうか。
  
7)天国での生活は、どのようなものでしょうか
71518節を参照してください)。
この世とくらべて、天国での生活にはどのようなちがいがあるでしょうか。
誰が天国に入れるのでしょうか。
「衣を小羊の血で洗って白くする」というのは、どういう意味ですか。
  
8)「私たちが天国に入れる」という栄光は、神様に属する事柄です。
それはどういう意味でしょうか。
どのようにしてあなたは、
天国への旅を続けている人々のグループの中に入れたのでしょうか。
また、それは誰のおかげでしたか。
  

2012年2月8日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 7章9~17節 誰も数えることのできないほど大きなグループ

   
誰も数えることのできないほど大きなグループ 7917
   
  
この世で戦っている神様の教会は、
神様が御自分に属する人々の世話を引き受けてくださっているおかげで、
励ましをすでに受けています。
それから、ヨハネは別の幻を見ます。
その幻も、
神様に属する人々が世の嵐の中で耐えていけるように、
励まします。
ヨハネは「戦う教会」を見ました。
そして今、
「天国で歓喜する教会」が彼に示されます。
世の悪が過ぎ去り、
神様に属する人々が最後の一人にいたるまで天国に入った瞬間を、
ヨハネは目撃しました。
天国に入ったグループの中には、
あらゆる国民から、国から、部族から、語族からの人々が含まれています。
彼らは長くて白い衣を身に着け、棕櫚の枝を手にしています。
「白い衣」は
神様に属する人々がもっている「義」をあらわしているのでしょう。
14節には、どのようにしてその義をいただけるかが書いてあります。
白い衣をもっているのは、
自分の衣を小羊の血で洗った者です。
イエス様の血だけが、罪人をきれいに洗います。
それなしでは、誰も聖なる神様の御前で耐えることができません。
「棕櫚の枝」は、
当時一般に「勝利のしるし」として
(競技などの)勝利者に与えられたものであり、
ここでも同じ意味で用いられています。
天国に入った人々は勝利し、終わりまで信仰を失いませんでした。
今や彼らは、もはや悩みも苦しみもない場所にいます。
とはいえ、
その勝利は彼ら自身の力で得られたものではありません。
イエス様が勝利者であるがゆえに、
イエス様に属する人々も勝利にあずかれるのです。
   
ヨハネは以前すでに一度、
天国の礼拝を傍らから眺めることができました
(「ヨハネの黙示録」45章)。
今彼は、
神様に属する人々が皆天国に入り永遠の命が始まった時に、
どのように神様を礼拝するのかを目の当たりにします。
天使たちと共に、救われた人々は神様に感謝し歌います。
(罪赦されて)人が天国に入れたことで栄光をお受けになるのは、
神様おひとりです。
誰も自分自身の力では天国に入れません。
しかし、
神様が(信じる者を)天国へと運び入れてくださるので、
そこにはあらゆる国民に属するおびただしい数の人々がいるわけです。
  

2012年2月6日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 7章1~8節 144000 人とは一体誰のことか?(その4)


144000 人とは一体誰のことか? 718節(その4)
  
 
終わりの時の嵐の中ではすべての人々は印を受けている、
というのが「ヨハネの黙示録」の教えであるようです。
「ヨハネの黙示録」は
「神様の印」の他に「獣の印」についても語っています。
つまり、人間はそれぞれ、
「神様のもの」か、あるいは「悪魔のもの」かのどちらかである、
という意味です。
他の第三の可能性は誰にも与えられていません。
「イエス様のもの」として洗礼を受けており、
イエス様を信じる人は、「神様のもの」です。
これはしかし、
人は皆自分の分が「封印」されていて、何の変更も起きない、
という意味ではありません。
神様は、今は「悪魔のもの」になっている人々を、御許に招かれます。
一方では、「神様のもの」である人々が信仰を失って、
「悪魔のもの」になってしまう危険も存在します。
  
それなら、
なぜ144000人の印を受けた人々について語られているのでしょうか。
もしも「(信仰のために)戦う教会」全体を意味しているのであれば、
そこには確実に144000人以上の人が属しているはずです。
「ヨハネの黙示録」では、
数字は、多くの場合、数自体以外の意味をもっています。
144000という数字は、
神様が御自分に属する人々のことを、
その人数まではっきり言えるほど正確に御存知だ、
ということを語っています。
私たちはそれを知りませんが、
人間の心をごらんになるお方は、御存知なのです。
この正確な数字は、
神様の御計画には秩序と調和があることを、
思い起こさせます。
イスラエルの12部族の一覧表も、それを示しています。
どの部族にも印のついている人々がちょうど同じ数だけいます。
これは、
神様の救いのみわざがその御計画通りに実現していく、
ということを言いたいのでしょう。
まさしく神様が「御自分のもの」として選ばれ召された人々が
救われた者のグループに入っているわけです
(「ローマの信徒への手紙」830節)。
   
一覧表が文字通りにイスラエルの部族を意味している、
という説明には問題があるでしょう。
表にある部族はどれももはや残ってはいません。
これは、すでに「ヨハネの黙示録」が書かれたときにもそうでした。
一部の部族は他の諸国民に入り混じって消えてしまいました。
そう考えると、この一覧表には、
印をつけられたユダヤ人部族とその数とは
何か別のメッセージが込められている、
と考えるべきでしょう。
  
「神様のものたち」は
終わりの時の最後に来る最悪の災いを被らずに済む、
と教える聖書の釈義者たちもいます。
それらの災いがやってくる前に、
「神様のもの」である人々は天国に連れ去られるからだ、
と言うのです。
しかし、
聖書にはそのような約束は書いてありません。
神様の民は悪の世界の只中で終わりまで生きて戦いつづけるのです。
神様は、
御自身が私たちと共にいて私たちを守り助けてくださる、
という約束をくださっています。
このことを知っておけば、
これからどんなことが起ころうとも、
私たちは安心していることができます。
  

2012年2月3日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 7章1~8節 144000人 とは一体誰のことか?(その3)

 
144000人とは一体誰のことか? 718節(その3)

 
「ヨハネの黙示録」には
印を受けた144000人についての箇所がもうひとつあります。
14章で、
イエス様はシオンの山で、144000人の印を受けた人々と共におられます。
上述の説明はこの幻にもよく適合します。
13章には、
地上で活動している神様の教会に対して
戦い暴れまわる「獣」についての記述があります。
イエス様と印を受けた144000人に関する幻は、
神様に属する人々に対して、
イエス様は御自分の群れを見捨てたり、
獣が神様の民を滅ぼすようには決してなさらないことを保証しています。
イエス様は教会の中心にいて、
神様に属する人々を見守っておられます。
「ヨハネの黙示録」が描く嵐の数々を読むときに、
このことを知っておくのはとても大切です。
「私は世の終わりまで、日々、あなたがたと共にいます」、
とイエス様御自身も約束しておられます
(「マタイによる福音書」2820節)。
  
神様に属する人々のグループの中からさらに、
特別に優遇されている小さなグループを選り分けることを
聖書に基づいて正当化するのは、困難です。
洗礼を受けイエス様を信じている人は皆、
神様の子供であり、
他の人たちにくらべて優れていたり劣っていたりはしません。
「ユダヤ人であるかギリシア人であるか、
奴隷であるか自由人であるか、
男であるか女であるか、
ということは関係ありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあってひとつだからです」、
と「ガラテアの信徒への手紙」328節は教えています。
この御言葉は、
144000人の印を受けた人々が、
神様に属する人々のグループの中でも
特別に優遇された集団などではありえないことを、
告げています。

 

2012年2月1日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 7章1~8節 144000人 とは一体誰のことか?(その2)

   
144000 人とは一体誰のことか? 718節(その2)
  
  
それからヨハネは、
活きておられる神様の印をもって東のほうから上ってくる天使を見ました。
印は、所有物に目印をつけるために用いられました。
ものに押された印からそれが誰の持ち物かわかるという仕組みです。
悪の力が解き放たれる前に、
天使は神様の僕たちの上に神様の印を押して回ります。
印を押された人々は「神様のもの」になるのです。
ヨハネは印を受けた人々のことを目にしてはいませんが、
彼らの人数がどれほどかは耳にします。
それが、144000人です。
  
「ヨハネの黙示録」にはとりわけ難解な箇所が幾つかあり、
これはそのうちのひとつです。
この幻はどういう意味でしょう。
また、144000人の印を受けた人々とは誰なのでしょう。
7章の初めで、ヨハネは地上での出来事を見ていきます。
それを踏まえると、
この幻は天国に入れた人々についてではなく、
地上で生きて戦っている「神様に属する人々」についてであると思われます。
世の終わりの出来事が始まる前に、彼らは印を受けます。
彼らは一体何者か、さまざまな説明が与えられています。
多くの聖書釈義者は、
神様に属する人々のうちのある限定されたグループ
(例えば、殉教者とかユダヤ人クリスチャンなど)
を指している、と考えます。
これはありえない解釈ではありません。
しかし、私がよりよい説明だと思うのは、
144000人の印を受けた人々は、
キリストの教会の中のある特定のグループではなく、
すべて「神様のものたち」、
イエス様の再臨を前にして地上で戦いつづける神様の民全体のことを表している、
という見方です。
この幻の目的は、
イエス様を信じる者一人一人を次のように励ますことにあります、
「あなたは「神様のもの」です。
神様は御自分に属する者をちゃんと世話してくださいます。
神様はあなたに印を押してくださいました。
あなたは「天地の主のもの」です。
それゆえ、恐れる必要はありません。
たとえ世界に嵐が吹き荒れても、
神様は御自分に属する人々を滅びるままにはなさいません」。
恐ろしい封印の幻が幾つか続いた後で、
このような約束を耳にするのは喜ばしいことです。