2013年4月11日木曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 9章8~34節 尋問 


  
尋問 9834
  
 
目の見えない人が視力を回復した癒しの奇跡は
周りの人々を驚嘆させ、一体何が起きたのか、調査する必要が生じました。
一見すると、ファリサイ派の人々は
目が見えるようになった人に対して集中的に質問しているようですが、
実は、彼らの関心はイエス様そのものに向けられていました。
最初に質問してきたのは、
近所の人々や、
目が見えるようになった人のことを前から知っていた人々でした。
彼らは出来事のあまりの不思議さに
どう考えてよいか、わからなかったのです。
ユダヤ人の民衆の教師だったファリサイ派の人々は、
彼らから出来事の説明を要求されました。
ファリサイ派の人々は、
奇跡そのものよりも、
イエス様が安息日に奇跡を行ったことに注目しました。
彼らによれば、それはモーセの律法を破る行為でした。
なぜ神はイエスの祈りを聴いたのか、
と訝る人々も中にはいました。
罪人の祈りは神様に聴かれることがない、
と一般に考えられていたからです。
癒された人は、
イエス様が預言者であることを微塵も疑いませんでした。
一番簡単な説明は、
実は奇跡は起きなかった、とするものです。
そのために、癒された人の両親が呼び出され、
彼らの息子は本当に生まれた時から盲目だったのか、
と厳しく尋問されました。
ユダヤ人を恐れて、
彼の両親は最小限の返答をするのに留めました。
彼らは、
癒された人が彼らの息子であり
生まれた時から目が見えなかったことを認めましたが、
他のことについては何も語ろうとはしませんでした。
彼らはシナゴーグ(ユダヤ人たちの集会所)からある一定の期間
(一週間か、一ヶ月間か、あるいは一生の間かはわかりません)
追放されていた可能性があります。
13歳でユダヤ人の男の子は、自分で自分の責任を取るようになります。
それを理由として、両親は彼について責任を取ろうとはしませんでした。
それで今度は、
目が見えるようになった人が再び尋問を受けることになりました。
「神に栄光を帰せよ」、と重々しく誓わせ、
「うそをついて罪人をかばってはいけないぞ」、と彼らは脅かしました。
それに対して、癒された人は、
ファリサイ派の人々の神経を一番逆なでするような質問を
逆に投げかけました。
もしもイエス様が罪人ならば、
なぜ神様はイエス様の祈りを聴いてくださったのでしょうか。
もしも神様がイエス様のことを聴いてくださるなら、
なぜファリサイ派の人々はイエス様について何もわからないのでしょうか。
これらの質問は、答えるにはあまりにも難しいものであったため、
ファリサイ派の人々は尋問を取りやめて、
癒された人をその場から追い払ったのでした。
 
 

2013年4月8日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 9章1~7節 悪いのは誰か?


 
盲目なのは誰か?
  
「ヨハネによる福音書」9
  
  
9章ではまず奇跡の出来事が描かれます。
しかし、他の三つの福音書とは異なり、
「ヨハネによる福音書」はすぐ次の話題に移ったりはせず、
奇跡の出来事の霊的な意味を説明しています。
この章でのイエス様の奇跡は、目の見えない人の目を癒すことです。
それで、この章の終わりでは
「霊的な盲目」の問題が取り上げられているのです。
   
   
悪いのは誰か? 917
    
当時のユダヤ人の一般的な理解では、
人が病気や不幸になるのは、
ほとんどの場合は、本人が罪を犯したからであり、
神様は罰としてその人を病気や不幸な目にあわせるのだ、
とされていました。
こうした見方からすると、
生まれつき目が見えない人は、神学的に興味深い問題を提起します。
誰の罪のせいで、その人は苦しむことになったのでしょうか。
自分の罪のせいでしょうか、それとも他の人の罪のせいでしょうか。
ラビたちの説明によれば、
エサウは母親の胎内にいる時すでに罪を犯し、
その結果、神様の怒りを招いた、とされます。
もう一例を挙げると、
両親が偶像を崇拝していた場合には、
母親の胎内にいた生まれる前の子どももまた
偶像礼拝に参加したことになる、とされます。
イエス様はこのような苦しみの原因をどこに求められるのでしょうか。
この箇所でイエス様は、
「罪とそれが引き起こす罰」という問題を持ち出そうとはなさいません
514節を参照してください)。
また、この問題を解決するために、
この箇所を援用するのも適切ではないでしょう。
ここでは、神様の偉大さが明示される特別なケースが扱われているからです。
このケースでは、
「光と暗闇」(あるいは「昼間と夜」)という一組の言葉が、
「視覚と盲目」という一組の言葉と結びついています。
イエス様は御自身の危険を顧みず、再び安息日に病人を癒されました。
昼間は短いので、昼の間に急いで仕事を行わなければならないのです。
こうして、「イザヤ書」35章の預言のうちの一つ、
「目の見えない人が見えるようになる」ことが実現しました
(「イザヤ書」355節)。
 

2013年3月25日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 7章53節~8章11節 イエス様と姦淫の女



イエス様と姦淫の女 753節~811

 
これは、人々の心を打つ特別に美しい箇所です。
イエス様は罪人の友である、というメッセージを伝えています。
この出来事はエルサレムで起きたと考えられます。
あるいは、
イエス様のこの世での人生の終わりに近い頃のことだったかもしれません。
そう考えて、この出来事から、
いっそう緊張した雰囲気を感じ取ることも可能でしょう。
  
この出来事には、
他の三つの福音書が伝える
「皇帝への税金」をめぐる議論と似た面があります。
イエス様がどう答えようとも、必ず罠にはまる仕掛けになっていたのです。
モーセの律法に忠実であることと、
罪人たちの友になることとを、
互いに結びつけて両立させるのは、不可能だったからです。
律法に忠実を貫き、姦淫をした女を殺すか(「申命記」222224節)、
あるいは、その女の罪を大目に見て、モーセの律法を否定するか、
そのどちらかを選ばなければなりませんでした。
  
イエス様はどうなさるでしょう。
イエス様は
この状況をすっかり掌握して、自由に振る舞われました。
そして、地面に何かお書きになりながら、
この仕組まれた劇的な状況が、
時間の経過とともに
本来の目的からはずれていくようになさいました。
イエス様は、
しつこく返答を迫る者たちを相手にせずに、
静かで穏やかなたたずまいを保たれました。
イエス様の一言によって、
今度は彼らが決断に迫られることになりました。
まず高齢で律法の知識に富む者たちが、
それから他の者たちが、
その場にいるのにいたたまれなくなり、何処へと姿を消しました。
最後にその場に残ったのは、
姦淫の罪を犯した女だけでした。
イエス様は彼女に罪の赦しを宣言し、
これからは悔い改めた者にふさわしい新しい生活を始めるように、
と彼女を送り出しました。
 
 

2013年3月22日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章31~59節 アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か?(その2)


  
アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か? 83159節(その2)
 
 
「ヨハネによる福音書」が書かれた時代にも、
こうした言葉には現実の重みがありました。
当時もキリスト信仰者は、
神様の民がイエス様を拒む
という状況の中で生活していたからです。
その時にも神様の民は、
自分たちがアブラハムの子孫であることを
持ち出したのはまちがいありません。
人が神様の民の一員であることには、
どのような益があったのでしょうか。
今ここで扱っている箇所は、この質問に明確に答えてくれます。
もしも人がキリストを拒むなら、
その人が選ばれた民の一員であることには、
何の益もないのです。


 
「ヨハネによる福音書」が伝える証は、
パウロの証と一致しています。
パウロは「イザヤ書」を引用しつつ、こう書きます、
「たとえイスラエルの民の数が海の砂粒ほど多いとしても、
彼らの中から救われるのは、ごく一部の生き残りです」
(「ローマの信徒への手紙」927節)。

  
話し合いの始めの部分では、
イエス様は御自分を信じるユダヤ人たちに話しかけ、
御自分が本当はどのようなお方か、教えました。
ところが、
ユダヤ人たちはこの教えを否定し、
イエス様を殺そうとしました。
そして、彼らは、
イエス様を信じることにも殺すことにも失敗しました。
(受け入れるにしろ、否定するにしろ)
イエス様を「しっかりとらえること」は、
彼らにとって容易ではなかったのです。

 

2013年3月20日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック  8章31~59節 アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か?(その1)


  
アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か? 83159節(その1)
  
 
イエス様がこの世に来られた後、
イスラエルの民の立場がどのようなものになったか
を考える時に、
これから取り上げる箇所は決定的な意味を持っています。
イエス様はユダヤ人たちに話されます。
「ユダヤ人」という言葉は、「ヨハネによる福音書」では、
「イエス様を拒んだユダヤ人」のことを
指していることがしばしばあります。
しかしここでは、イエス様は
御自分のことを信じるユダヤ人たちに対して
語りかけておられます。
ここでの話し合いは、一切をまったく新しい光のもとに照らし出します。
  
「信仰」という言葉は、「ヨハネによる福音書」では、
さまざまな意味で用いられています。
ここでのユダヤ人たちの信仰は、とても表面的なものでした。
彼らは、
イエス様が神様の御子である、と告白しなかったし、
世の罪を取り除くお方、暗闇の中で生きている人々の唯一の光である
とも信じてはいませんでした。
ほどなくして、話し合いは大きな意見の相違を生み出しました。
自分たちがアブラハムの子孫であることに依拠して、
ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しました。
神様がアブラハムにお与えになった約束の一切は自分たちだけのものだ、
と彼らは考えていたのです。
   
イエス様はこの主張をきっぱりと否定なさり、
「私に反対する者は、アブラハムの子孫ではなく、悪魔の子孫である」、
と断言されました。
アブラハムは、キリストがこの世にあらわれることを前もって目にし、
それを喜びました。
それに対して、
ユダヤ人たちはキリストを拒み、殺そうとしました。
キリストを拒み、
キリストが御父の御許から来られたことを信じないユダヤ人たちは、
アブラハムとは実際は何の関係もないのです。
 

2013年3月18日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章21~30節 「私はある」 イエス様の真のお姿


 
「私はある」 イエス様の真のお姿 82130
  
 
イエス様はこの世を去っていかれることについて話されます。
ところが、またしてもユダヤ人たちはイエス様の言葉を誤解します。
それは、
彼らがイエス様を侮っていたからではなく、
神様の光を見ることがまったくできなかったからです。
聴衆は、イエス様の教えの頂点とも言えるこの箇所を、
ユダヤ人同様、理解できませんでした。
ここで「ヨハネの福音書」は、他のどの箇所よりも明瞭に、
御父と御子とが一体であることを語っているのです。
  
旧約聖書の「出エジプト記」で、
モーセが驚いて神様の御名前を尋ねるシーンがあります。
その時、神様は次のようにお答えになりました、
「イスラエルの人々にこう言いなさい、
「私はある」という方が私をあなたがたのところに遣わされたのだ、と」
314節)。
そして、イエス様もこの箇所で、
御自分について翻訳が困難なこの御名前を用いておられます、
「「私はある」ということを信じないのなら、
あなたがたは自分の罪の中に死ぬことになります」
(「ヨハネによる福音書」824節後半)。
御父と御子が一体であることを理解しない者は、
罪のゆえに死に支配されます。
この一体性を理解する者は、
御子が世の光として御父の御許から来られたことを信仰告白し、
罪の赦しを見出します。
イエス様の本質を信仰告白する人もいれば、
それを見ないで否定する人もいます。
イエス様の「この世を去られること」と「挙げられること」とを
どのように受け止めるかも、
イエス様の本質を理解しているかどうかによってちがってきます。
キリストと神様の一体性を否定する人は、
「キリストがこの世を去られること」を、
神を侮辱する者の死として見るだけですし、
「キリストが挙げられること」を、
天下の極悪人が万人の侮辱を受けるべく十字架にかかることとして
とらえるにすぎません。
御父と御子の一体性を見るように神様から目を開いていただいた人は、
「イエス様がこの世を去ること」が、
御父の栄光の中に御子が入られることであると理解して、
イエス様の十字架を大いに誇るようになります。
 

2013年3月15日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章12~20節 ガリラヤから昇る光 


   
ガリラヤから昇る光 81220
  
 
ここで7章の終わりに戻りましょう。
そこではイエス様の反対者たちは、
「ガリラヤから預言者が現れるという予言はない」、
と言ってイエス様を拒みました。
しかし、彼らは非常に大切なメシア預言を見落としていました。
「イザヤ書」(823節)には、
周囲から軽んじられてきたゼブルンとナフタリの地が
大いなる栄光を見ることになる、
とあります。
この予言の後にすぐつづいているのが、
平和の君がその民を解放するために来られる、
というクリスマスの預言です。
「子が私たちに生まれ、男の子が私たちに与えられました。
権威はその肩にかかっています」(「イザヤ書」95節)。
  
ベツレヘムでお生まれになるメシアのことについて触れた
「ヨハネによる福音書」は、
イエス様のたったひとつの御言葉によって、
ふたつの待望を結び合わせました。
メシアはベツレヘムとガリラヤからあらわれるはずだ、
という待望です。
まったく同様にして「ヨハネによる福音書」は、
イエス様のペルソナのふたつの側面[1]を結び付けました。
人々はイエス様が人としてお生まれになったことを知っていました。
これは、メシアの誕生については誰も知らないはずだ、
という予想とはずれていました。
人々はイエス様の神様としての出自を知らなかったし、
それを認めて告白することもありませんでした。
人々は御父を知らなかったので、
御子のことも知ることができませんでした。
彼らは御子を憎み、
神様が遣わされた光をかき消すために機会を窺っていました。
ここでまた「ヨハネによる福音書」の冒頭の「ロゴス賛歌」に戻りましょう、
「そして、光は暗闇の中で輝いています。
しかし、暗闇は光を我が物とすることができませんでした」(15節)。
 

[1] イエス様は、まったき神であり、かつ、まったき人であることです(訳者註)。