御言葉にゆだねて
「テモテへの第二の手紙」3章14〜17節
キリスト教信仰は神様が私たち人間に啓示なさったことが根幹となっています
(「マタイによる福音書」7章24〜27節、
「ペテロの第二の手紙」1章19〜21節)。
聖書と関わりのない「新しい啓示」や「新しい福音」なるものは
キリストに向かって進んでいくものではなく、
逆にキリストから離れていくものです
(「ガラテアの信徒への手紙」1章6〜9節。
また「ヨハネの第一の手紙」2章24節と
「ヨハネの第二の手紙」9節も参考になります)。
パウロは次の「使徒言行録」の箇所で
真の福音がいかなるものかアグリッパ王の前で証しています。
「しかし、わたしは今日に至るまで神の加護を受け、
このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、
預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、
そのまま述べてきました。
すなわち、キリストが苦難を受けること、
また、死人の中から最初によみがえって、
この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、
あかししたのです。」
(「使徒言行録」26章22〜23節、口語訳)
私たちは新しい教えや新しい教師を探し回るべきではなく(3章7節)、
使徒的な信仰に堅く留まり続けるべきなのです(3章14節)。
テモテは誰から福音を学んだのでしょうか(3章14節)。
もちろんそれはパウロからでしたが、
おそらくここでパウロはテモテの祖母ロイスと母ユニケ(1章5節)のことも
念頭に置いているものと思われます。
「また幼い時から、聖書に親しみ、
それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、
あなたに与えうる書物であることを知っている。」
(「テモテへの第二の手紙」3章15節、口語訳)
ユダヤ人の(男の)子どもたちは5歳になると
旧約聖書についての教えを受けるようになります。
神様の御意思を聴いて受け入れることこそが人間をより賢くしてくれます。
これについては旧約聖書にも述べられています
(「詩篇」19篇8節、119篇98節)。
主への畏れは知恵の始まりです
(「詩篇」111篇10節、「箴言」9章10節)。
しかし、聖書における「知恵」とはたんなる知力ではなく
さらに広範な意味をもつ言葉であることを覚えておきましょう。
聖書の「知恵」には、例えばある種の人生経験や思慮深さも含まれています。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、
人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」
(「テモテへの第二の手紙」3章16節、口語訳)
この箇所は原語的にはいろいろな解釈ができますが、
パウロが旧約聖書全体を神様の啓示として受け入れていたことは明らかです。
この手紙が書かれた当時すでに
福音書やパウロの手紙は神様の啓示の一部として
認められるようになってきていました
(「テモテへの第一の手紙」5章18節、
「ペテロの第二の手紙」3章15〜16節)。
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、
まず第一に知るべきである。
なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、
人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章20〜21節、口語訳)
聖書は人間的でもあり神的でもある書物です。
しかし、私たち人間は
聖書の神的な側面を人間的な側面から区別することができません。
聖書全体は同時に
(人間が記した書物であるという意味で)人間的でもあり
(神様からの語りかけであるという意味で)神的でもあるからです。
「それによって、神の人が、
あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、
完全にととのえられた者になるのである。」
(「テモテへの第二の手紙」3章17節、口語訳)
「神の人」はキリスト信仰者のことを意味しています。
この表現は旧約聖書では
モーセ(「申命記」33章1節)、
エリヤ(「列王記上」17章18節)、
ダビデ(「歴代志下」8章14節)そして
テモテ(「テモテへの第一の手紙」6章11節)
について用いられています。
「テモテへの第二の手紙」を含めて「牧会書簡」は
善い行いの重要性を強調しています。
これらの行いは行為者自身の信仰を証するものであるとともに
他の人々を信仰へと招くものでもあります。