2012年9月5日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章7~10節 最後の戦い(その1)


 
最後の戦い 20710節(その1)
  
 
ヨハネはこの世のエピローグを目にします。
神様が悪魔を解き放たれると、悪魔は最後の攻撃を開始します。
これはおそらく、
すでに16章で語られているのと同じ攻撃を指しているのでしょう
1616節)。
ヨハネは、イエス様の再臨直前に勃発する大戦争を見ます。
これは、
この世において史上最悪の戦争を悪魔が引き起こすことに成功する、
という意味かもしれません。
あるいは、
人々を惑わし神様の教会を破壊するために悪魔が
その最後の力を使い果たしてまで行うような戦いを
この描写に見ることもできます。
9節の「聖徒たちの陣営」や「愛されてきた都」への言及も、
この解釈を支持します。
「愛されてきた都」は、
神様の御国とそこに属する者たちを意味しているものでしょう。
これは、
「ヨハネの黙示録」において悪魔の帝国を意味すると思われる
「バビロン」という言葉の対義語です。
8節の「ゴグとマゴグ」は、「エゼキエル書」にも出てきます
(「エゼキエル書」3839章)。
誰のことをエゼキエルは意味していたのか、確かなことはわかりません。
イスラエルの民をおびやかしていたスキュタイ人のことを、
あるいは指しているのかもしれません。
ユダヤ教では後に、「ゴグとマゴグ」は
「選ばれた民」をおびやかすあらゆる諸国民を意味する言葉
として理解されました。
おそらくそれと同じ意味で、ヨハネもこの言葉を使用しているのでしょう。
すなわち、「ゴグとマゴグ」は、
イエス様の再臨の直前に
キリスト教会を攻撃する悪魔の部下たちをあらわしている、
ということです。

2012年9月3日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その4)


  
千年王国 2016節(その4)
  

  
私(このガイドブックの著者ヤリ・ランキネン牧師)の考えでは、
この最後の解釈が千年王国の幻について最も適切なものだと思います。
ヨハネは、遠い未来の至福の時について語っているのではなく、
キリストに属する人が死んだ後にすぐいただけるはずの事柄を描いている、
ということです。
この世では、「神様のもの」である人々は
(つまり、洗礼を受けイエス様を救い主として信じている人々は)
戦場に立たされますが、
この世を去るときにその戦いは終わります。
今悪魔は私たちのいる世界の只中で暴れまわっていますが、
死を通して、
私たちは悪魔が手出しできないところへと移り住むことになります。
死んだ後に神様に属する人々を待っているのは、
永遠に主と共にいられる御国です。
このメッセージは、
迫害の中で生きていた初めの頃のクリスチャンたちにとって、
とても大切な約束でした。
悪魔は彼らを恐るべきやり口で攻撃していました。
彼らは獅子の前に連れ出されました。
彼らは嘲笑の的にされました。
彼らは侮辱されました。
ヨハネに示された幻は、
この世で主を拒絶しなかった人々には、
この世での命の後にどのようなことが起こるか、
語っています。
彼らの魂はイエス様がいらっしゃる御許に行けるのです。
もはやそこには悪魔からの攻撃はなく、
神様に属する人々のグループから離れてしまう危険もありません。
さらに素晴らしいことに、
そこで彼らはイエス様と共にこの世を支配することができるのです。
イエス様に属する人々は、
この世で彼らを支配し彼らに死の宣告を下した人々を
支配する立場に就きます。
天地のすべての権威を有するイエス様は、
この世を終わりに向けて導かれます。
そして、死んだ「神様のものたち」は、
イエス様がこの世を導かれるみわざに参加させていただけます。
パウロの「フィリピの信徒への手紙」の次の言葉は、
これと同じことを意味しているのでしょう、
「私はこの世を去って、キリストの御許に行きたいと願っています。
なぜなら、それが最善だからです」
(「フィリピの信徒への手紙」123節)。

2012年8月31日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その3) 


  
千年王国 2016節(その3) 
  
  
千年王国の描写には第三の解釈も可能です。
それは、
この幻は神様の御許なる天の御国を描いているのではないか、
というものです。
「ヨハネの黙示録」12章で語られたように、
サタンは天国から投げ落とされました。
それでヨハネは、
「サタンは捕縛され、深淵に投げ込まれた」、
という言い方をしたのかも知れません。
4節でヨハネは、
「キリストのもの」としてこの世を去った人々の魂を見た、
と言っています。
そして、「彼らは主と共に千年間支配する」、とも言っています。
「神様のもの」として人が死ぬとき、
その人の身体は墓に入りますが、
魂はそこには残らずに、輝く天国へと昇ります。
そこではキリストが、
無事に目的地に着いた教会員たちと共に支配なさっています。
悪魔の権威は、天国までは及びません。
こういうわけで、「第一の復活」は
神様の子どもたちがこの世を去る瞬間のことを意味している、
ともとれます。
その人の魂は天国の神様の御許に移り住むので、
もはやその人には地獄に落ちる危険がありません。
「千年間」とは1000×365日間という期間を意味するものではない、
というアウグスティヌスの見方が正しいのは確かでしょう。
「ヨハネの黙示録」に出てくるいろいろな数字は
正確な数量に対応するものではなく、
他のメッセージを含んでいる場合が多いのです。
「千年」という言葉は、
具体的な長さは伏せられたまま、
たんに長い期間をあらわしているものと思われます。
私たち人間は具体的な期間の長さを知らないが、
神様はそれも御存知である、
ということをこの数字は思い起こさせます。
それがいつ始まりいつ終わるのかは、神様がお決めになっています。
ここで、「ペテロの第二の手紙」の
「主にとって、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」
(「ペテロの第二の手紙」38節より)という御言葉が想起されます。

2012年8月29日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その2) 


 
千年王国 2016節(その2)

 
 
イエス様もまた、サタンの捕縛について語られています
(「マタイによる福音書」1229節)。
これによってイエス様は、
御自分の悪魔に対する勝利を意味しておられました。
イエス様は敵よりも強いお方であり、
それゆえ、
悪魔の活動はイエス様が許可なさる範囲内に留まっています。
つまり、千年王国の描写においても、
悪魔が捕縛されているということは、
必ずしも悪魔の活動が完全に止んだことを意味しないのです。
むしろそれは、
サタンの活動が制限された、という意味にとることができます。
神様は悪魔を捕縛なさったので、
悪魔が手出しできることは
神様が許可されることがらに限定されています。
例として、ここフィンランドでは
キリストの教会は何百年もの間、
福音を自由に宣べ伝えることができました。
千年王国の幻に関するアウグスティヌスの説明の仕方は、
(近年までの)フィンランドにもよく当てはまります。
フィンランドではサタンの活動は制限されてきたので、
サタンはここでは鎖で縛られてきたかのようです
(最近ではフィンランドでも
サタンの活動が激しくなってきているのは否めない事実です)。
 
 

2012年8月27日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その1)


 
「ヨハネの黙示録」20
  
千年王国 2016節(その1)
  
 
ヨハネは、鍵と鎖を手に持っている天使を見ます。
天使は悪魔を縛り、深淵へと投げ込みます。
「悪魔は千年の間縛られているが、
その後自由にされて、しばらくの間暴れる機会を与えられる」、
とヨハネは語ります。
それからヨハネは、この世で獣に仕えなかった人々を見ます。
彼らは生き返り、イエス様と共に千年の間支配します。
「これは第一の復活である」、とヨハネは言い、
この復活にあずかった者たちを祝します。
彼らに対しては、「第二の死」は何の力もありません。
14節には、「第二の死は地獄を意味している」、とあります。
この地獄に、悪魔とその僕たちはいつか投げ込まれるのです。
第一の復活でよみがえる人々には、地獄に落ちる危険はありません。
  
千年王国のイメージについては、さまざまな説明が試みられてきました。
いわゆるキリアスト(千年至福説支持者)たちは、千年王国を、
最後の裁きに先立って千年間続く「楽園のような時代」ととらえています。
それによると、
この時代には悪魔は世で活動することができず、
それゆえ、地上には悪魔が引き起こす悪いことも存在しません。
悪魔は縛られているため、皆が安心して生活できます。
イエス様を信じて死んだ人々は墓からよみがえって、
イエス様と共に世界を支配します。
このキリアストの説明の問題点は、
新約聖書は他の箇所で地上の楽園について語っていない、
ということです。
たとえば、弟子たちになされた終末の時に関する長いお話の中で、
イエス様は「地上に到来する至福の時代」について
一切言及されていません(「マタイによる福音書」24章、
「マルコによる福音書」13章、「ルカによる福音書」21章)。
むしろ新約聖書は、
「世は悪化の一途を辿り、
キリストが再臨なさる最後の日になって、ようやく世の悪は止む」、
と教えています。
こうした理由から、
教父アウグスティヌスやルターなどは、この千年至福説を否定しました。
アウグスティヌスは、
「千年王国というのはキリストの教会のことである」、
と考えました。
教会は、
悪魔のわざを無効にしてくださったイエス様の勝利を宣べ伝えます。
教会の宝は、
人々を悪魔の支配から解放する福音です。
悪魔は神様が許可されることだけを行うことができるので、
たしかに「悪魔は捕縛されている」、と言えます。
教会が自由に福音を伝えられる地域では、
悪魔は鎖につながれ、深淵に投げ入れられています。
アウグスティヌスによれば、
「千」という数字は文字通りに受け取るべきではありません。
それは、
ペンテコステに始まりイエス様の再臨の時に終わる
キリストの教会の時代を描いています。
ルターは、
千年王国のイメージに関するこのアウグスティヌスの解釈に同意していました。

2012年8月24日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第11回目の終わりのメッセージ


  
終わりのメッセージ
   
信仰のおかげではなく
   
  
救いは信仰や純真な献身には依らない、
というのは本当でしょうか。
多くの人は、
「信じなければならない」、
という思いを抱いて歩んでいます。
それはたいへんな重荷です。
信じることを強制する人々は、
よくないことをしているのです。
  
キリスト教の核心は信仰ではありません。
「信じなければならない」
という義務感に取り付かれている人は、
その義務感を投げ捨ててよいのです。
そのかわりに、イエス様を見つめなさい。
イエス様はこのことについて何も要求なさいません。
それどころか、すべてを与えてくださいます。
あらゆる重荷と罪の呵責は、
イエス様の受難の死によってすっかり取り去られているのです。
そしてそのときに、
「信じなければ」
という義務感も取り払われているのです。
人が救われるのは、
その人の信仰のおかげではなく、
イエス様の贖いのみわざのおかげなのです。
信仰は、
イエス様の善き本質の中にすっかり隠れてしまっており、
私自身の目にはそれが見えないほどです。
そして、見ようとする必要もないのです。
私はイエス様の中に罪の赦しを見ているのですから。
  
そこには何の強制もありません。
そこにあるのは、神様の子どもとしての自由です。
  
(ラウリ コスケンニエミ 「今日、私と共にいてください」)

2012年8月22日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第11回目の質問(18~19章) 



11回目の集まりのために
  
「ヨハネの黙示録」1819
  
 
ヨハネはバビロンの滅亡を目にすることになりました。
それ以前に彼は「都の外に出るように」、という命令を耳にします。
「バビロン」は、悪魔の帝国を、
「バビロンを捨てよ」という命令は、悪魔の活動と関係を断ち切ることを、
意味しているものと思われます。
悪魔は神様に属する人々のグループを滅ぼそうとしているのです。
イエス様に反対する者たちは悪魔の側についています。
ヨハネは、
彼らが親玉と共に惨めな最期を遂げる恐怖の有様を
描き出しています。
それから、ヨハネの視線は天国へと向けられます。
「イエス様のもの」として生き抜いた人々は、
天国の婚宴の中で永遠の喜びに包まれています。
  
  
質問

1)「バビロンから逃亡する」というのはどういう意味でしょうか。
184節の説明を参照してください。
それは私たちの時代にはどのような意味を持っているでしょうか。
  
2)バビロンの滅亡はどのように描かれていますか。
その描写に込められた私たちへのメッセージは何でしょうか。
  
3)裁きを受けた後、バビロンとその住人たちは
神様からの素晴らしい賜物には何一つあずかることができません。
神様からいただく賜物なしで生きるのは、どのようなものでしょうか。
地獄にはそうした賜物がまったくないのです。
要するに、地獄とはどのような場所なのでしょうか。
  
4)最後の日にバビロンは
自分が行ったあらゆる悪の報復を神様から受けます。
「復讐を神様にゆだねる」、というのはどういう意味でしょうか。
「ローマの信徒への手紙」1219節を参照してください。
どのようなことがらに関してこのようにすることができるのでしょうか。
あるいはまた、このようにするべきなのでしょうか。
  
5)あなたは神様を畏れる人々のうちの一人ですか(195節)。
それは、あなたの生活と信仰において、どのようにあらわれていますか。
  
6)198節の「聖徒たちの義なる行い」とはどのような意味でしょうか。
その箇所の説明を参照してください。
この箇所は、天国についてどのようなことを語っていますか。
そこでの生活はどのようなものでしょうか。