2011年11月28日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 4章1~11節 天国訪問(その2)


 
天国訪問 4章1~11節(その2) 
 
 
宝石は不思議な色で光り輝きます。
それら宝石を(象徴として)用いて、
ヨハネは御座に着かれている天と地の主を描いています。
全能者の周りには24人の長老が白い衣を身にまとい、
金の冠を頭にかぶっていました。
彼らが誰なのか、私たちは知りません。
おそらく彼らは
神様の御座で特別な任務を受けている天使たちなのでしょう。
旧約の時代には、
イスラエルの民は
ヤコブの12人の男子に呼応して
12の部族に分かれていました。
新約の基盤は使徒的な信仰です。
そして、使徒は12人いました。
長老の人数は神様が結ばれた二つの契約を想起させます。
  
神様の御座の周りには、
体中が目だらけの四つの生き物がいました。
「エゼキエル書」1章には
これと似たような幻についての記述があります。
これらの生き物が何者か、
またしても確実なことは言えません。
おそらく天使ではないかと思われます。
生き物たちのもつ夥しい数の目は、
神様に対しては何も隠し立てできないこと
をあらわしているのでしょう。
生き物たちの目があらゆるところに向いているのと
ちょうど同じように、
神様はすべてをご覧になります。
全知全能の神様は、
すべてを見ておられ、
すべてを知っておられるのです。
  
後世のクリスチャンは四人の福音書記者を
ヨハネの見た生き物として表現しました。
マルコはライオン、ルカは雄牛、ヨハネは鷲、
マタイは人間の顔を持った生き物、としてです。
  
8節~11節で、ヨハネは天国での礼拝を描きます。
生き物たちは全能の神様に賛美を歌います。
「聖なるかな」という言葉が三回繰り返されます。
神様が三位一体のお方だからです。
御父に「聖なるかな」、
御子に「聖なるかな」、
御霊に「聖なるかな」、
というように。
天国での礼拝は神様の偉大さを力強く証しています。
天国の一群は全能者の御前にひれ伏し、
この方こそがすべての栄光を有される主なる神様です、
と告白します。
天国の民が絶え間なく礼拝を続けていることからもわかるとおり、
神様はまことに大いなるお方なのです。

2011年11月25日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 4章1~11節 天国訪問(その1)


  
ヨハネの黙示録4
   
天国訪問 4111節(その1)
  
 
4章は「ヨハネの黙示録」のターニングポイントです。
これまでは、地上で活動している教会についての話でした。
今、視線は天国とそこでの出来事に向けられます。
これまでは、復活されたイエス様がヨハネに直接話しかけられました。
ヨハネは4章の冒頭でラッパのような音を耳にします。
それはおそらく神様の御子の語りかけを意味しています
11011節を参照してください)。
この後でふたたびイエス様の声が響くのは、
(いくつかの例外を除けば)ようやく最終章になってからです。
そこにいたるまでは、
イエス様はヨハネに天使を通して語りかけられます。
119節でイエス様はヨハネに、
今の、そして、これから起きる出来事を
教えることを約束なさいました。
これまでの章では、
諸教会の当時の状態がヨハネに示されました。
これからの章では、
未来での出来事が明らかにされるのです。
  
ヨハネは恍惚状態になります(110節を参照してください)。
彼は輝きに包まれて天国に連れて行かれ、
そこでの不思議な出来事を目の当たりにします。
ヨハネは自分が見ていることをどう言い表すべきか、困惑します。
それで、彼は象徴を用いて語ることにします。
もちろん、それらの象徴は、
彼に示された出来事そのものというより、それに近似するものです。
もしもヨハネにとって、
自分が見たことを言葉によって表現するのが難しいのだとすれば、
ヨハネが実際に何を見て、象徴によって何を意味したのか、
解き明かすのは、
「ヨハネによる黙示録」を読む私たちにとっては、
さらに難しいことになります。
それについて何かしら言うことはできるでしょうが、
ここではむしろ、
光輝く天国についてのヨハネの描写に
感嘆するにとどめておきたいと思います。
  
  

2011年11月23日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第3回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ
 
 
信仰を捨てることについて

 
 
人が信仰を捨てることになるのは、
その人の弱い信仰のせいではありません。
弱い信仰の人は、
それなしでは生きていくことができないもの(つまり信仰)を
しっかり保ちつづけるものだからです。
人々の心を最近再び支配するようになった自分の力に頼る考え方こそが、
信仰を消滅させてしまうのです。
私たちの生きている現代では、
このような自己中心的な考え方が
クリスチャンの心をも次に述べる二通りのやり方で支配しているように、
私には見えます。
  
大多数の人は時代の風潮に流されていくことで、信仰から離れていきます。
この世で成功しお金持ちになることが、彼らの人生の全目的になっています。
「皆そうして生きているではないか」、と彼らは言います。
知らず知らずのうちに、
彼らはすべてを自分の手中に収めようとする人間になってしまいました。
一方で彼らは、今までは生活の一部だった
神様の御言葉、クリスチャンの交わり、礼拝、聖餐式などを
次々と捨て去っていきます。
それらは晩秋の木々の葉っぱのようにはらはらと地面に落ちていきます。
こうして信仰の根っこが乾いてしまうのです。
「我々は周りから見ても立派に見える生き方をしてきたし、
宗教的な伝統を重んじている。
ちゃんとそれらに参加もしている」、
と彼らは弁解します。
ところが真の人生はすでに失われてしまっているのです。
  
人々を支配するもうひとつのものは、人々を眩惑する新しい考え方です。
その倫理的な魅力と社会的な正義は彼らにとって魅力的です。
これらを盾にして多くの人は社会批判の武器を手に入れました。
もちろん社会の中には批判されるべき点が沢山あります。
彼らはキリスト教の価値観にもとづいて社会批判を始めるのですが、
不思議なことに、
いつの間にか救い主との個人的な交わりが薄くなっていきます。
その代わりに、
社会問題の解決を考え続ける終わりのない試みが
生活の中心を占めるようになります。
彼らは元々は、
「救い主に頼るか、自分の力で問題を考えるか」、
という二者択一をするつもりはなかったのですが、
結局は後者を選ぶことになったのです。
しまいには彼らは、
あの拝金主義の人々と同じように、
自分の力に頼る者に成り果てました。
このことは、
彼らがもはや聖餐式を必要とせず、
クリスチャンの交わりよりも他の人間関係を大切にするようになり、
御言葉を生活の隅に追いやっていることなどからわかります。
こうしてまた信仰の根っこが切れてしまいました。
それとともに、命との関係も切れてしまいました。
    
(ラウリ コスケンニエミ 「今日私と共にいてください」)

2011年11月21日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第3回目の質問(3章)

 
第3回目の集まりのために

「ヨハネの黙示録」3章


「ヨハネの黙示録」3章の内容は、
サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤの諸教会に宛てられた手紙についてです。
イエス様はサルデスとラオデキヤの教会を叱正なさいました。
それは理由があってのことでした。
イエス様は、
間違った方向に迷走し始めた教会が後で厳しい裁きを受けないために
一刻も早く悔い改めるよう勧告なさっているのです。
イエス様の御許に戻る道はまだ開いています。
フィラデルフィアの教会はイエス様から褒められています。
イエス様は、
この教会をこれからも御自分の働きを通して用いることを約束して、
教会が天国への旅をつづける大切さを思い出させます。


質問

1)サルデスの教会はおそらく無関心のまどろみの中に沈みこんでいたのでしょう
(1~6節の説明を参照してください)。
私たちの今の教会にもそれは当てはまりますか。また、それはどのように見えますか。
事態を改善するために私たちには何ができるでしょうか。
イエス様はどのような忠告をサルデスの教会にお与えになりましたか。

2)イエス様はサルデスとラオデキヤの教会をお叱りになりました。
イエス様は私たちのこともお叱りになるでしょうか。その場合、どのようにでしょうか。
叱られるのは気分のよいものではありませんが、必要なことでもあります。
それはなぜでしょうか。

3)フィラデルフィアの教会には敵がいました。
私たちには敵がいますか。
敵に対しては、どのような態度を取るべきでしょうか。
彼らにイエス様のことを伝えるにはどうすればよいでしょう。
クリスチャンをひどく軽蔑していた人が後でクリスチャンになる場合があります。
フィラデルフィアではそのようなことが起こる、とイエス様は約束してくださいました。
以前はキリスト教に激しく反対していたのに今ではクリスチャンになった人を、
あなたは誰か知っていますか。

4)天国について思い巡らすことによって、
神様に属する人として生きていく力をいただけますか。
天国のことを忘れずに生きていくためには、どうすればよいのでしょうか。
天国について考えすぎる、ということがありうるでしょうか。
もしもそうなったら、どのような結果を招くでしょうか。

5)イエス様はラオデキヤの教会では教会の主にふさわしい地位を与えられませんでした。
イエス様は戸の外側におられたのです!
このようなことがどうして起こるのでしょう。
イエス様が教会の中で片隅に追いやられている例を知っていますか。
それはどのような事態を招くことになるでしょうか。

6)ラオデキヤの教会はイエス様からの手紙に対してどのような態度を取ったと思いますか。
イエス様からそのような手紙をいただいた場合、
あなたならそれに対してどのように反応するでしょうか。

7)どのような手紙をイエス様はあなたの教会に送られると思いますか。

2011年11月18日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章14~22節 ラオデキヤの教会への手紙(その2)

ラオデキヤの教会への手紙 3章14~22節(その2)
 
 
18節でイエス様は、
ラオデキヤの教会が御自分の用意なさった品々を買うように勧めます。
「買う」と言っても、普通の意味での買い物ではありません。
神様からは何もお金で買ったりはしません。
それは「イザヤ書」が次のように言う意味での「買い物」なのです、
「さあ、渇いている者は皆、水のところに来なさい。
お金のない人も、こちらへ来て、食料を買い、食べなさい。
来なさい。そして、お金など払わずに無料で、ぶどう酒と乳を買い求めなさい」
(「イザヤ書」55章1節)。
このように、イエス様は教会に欠けているものを
ただで教会に差し出してくださいます。
教会はこの贈り物を、受け取ることも受け取らないこともできます。
もしもこの贈り物が教会の嗜好に合わないのだとしたら、
それはその教会自身の傲慢さを示しており、
教会はイエス様の口から外に吐き出されてしまうことになります。
 
イエス様は教会全体を揺り起こそうとしているだけではありません。
教会の会員ひとりひとりに語りかけてくださっているのです。
イエス様は外に立ち、戸をたたいておられます。
これは、
教会の主御自身がラオデキヤの教会の外に締め出されていたことを表しています。
教会の状態が悪化した原因がそこにあるのは、まちがいありません。
もしも教会全体が主の声に耳を傾けないとしても、
道を踏みはずした教会の会員のうちの数人だけか、あるいは一人だけでも、
その(心の)戸を御自分に開くように、とイエス様は勧告なさいます。
そして、そのように行う人に多くのよいことを約束してくださいます。
その人にはいつか将来、イエス様と共に神様の御座に座ることが許されるのです。
イエス様は十字架の道で戦われ、勝利されました。
それと同じく、
イエス様に従う人々の人生も戦いであり、十字架を背負っていくことです。
大変ですが、勝利はもう目の前です。
なにしろ、イエス様が勝利者だからです。
そして、勝利者に属する私たちもまた、勝利者なのです。

2011年11月16日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章14~22節 ラオデキヤの教会への手紙(その1)

ラオデキヤの教会への手紙 3章14~22節
 
  
ラオデキヤは交易路に面した富裕な都市でした。
西暦60年、この都市は地震で崩壊しました。
しかし、「ヨハネの黙示録」が書かれた頃には
ラオデキヤは再建され、経済的な豊かさを誇っていました。

イエス様はラオデキヤの教会に向けて、「アーメン」という言葉で話し始められます。
アーメンはヘブライ語で、「まことにそのとおりです」という意味です。
たとえば、他の人の話を聴いた後で、「アーメン」と言って、
その話が正しく信頼できるものであることを証することができます。
イエス様が「アーメン」と言われているのは、
イエス様が言われることすべてを「アーメン」という言葉で受け入れることができる、
という意味です。
イエス様のなさるお話は常に真です。
「神様のお造りになったものの始原」は、
「ヨハネの福音書」の冒頭で御言葉についての言及と同じことを意味しているのでしょう
(「ヨハネによる福音書」1章3節)。
イエス様は天地創造に参与され、
御子を通して父なる神様は万物をお造りになったのです。
 
ラオデキヤの教会は、サルデスの教会と同様に、イエス様から厳しく諌められています。
この教会はもはや主と共に戦う教会ではありませんでした。
鈍く、無関心で、生ぬるく、まったく落第点の教会に成り下がっていたのです。
サルデスの教会と同様に、ラオデキヤの教会も、
「うちの教会はすべて順調だ」、と勝手に思い込んでいました。
教会は自分の豊かさを誇ってさえいました。
ところが実際には、
教会はひどく哀れで、貧しく、盲目で、裸のような状態だったのです。
ラオデキヤの教会へのイエス様の言葉は、
スミルナの教会への言葉とは正反対のものでした。
スミルナの教会は外側からは貧しく惨めに見えましたが、
実際には豊かでした。
その教会には、ラオデキヤの教会には欠けていた「最大の富」があったからです。
 
ラオデキヤの教会はイエス様にとって役に立たない教会でした。
それは冷たくもなく熱くもありませんでした。
冷たい水には、それならではの大切な用途がありますし、それは熱い水の場合も同じです。
生ぬるい水は、置きっぱなしになっていて、使い道がなくなった水のことです。
ラオデキヤの教会はまさにその生ぬるい水のような教会でした。
それは味気がなくなり、
神様の教会に与えられている大切な使命を果たすことができなくなっていました。
それゆえ、イエス様は、
「このままでは、あなたたちの教会を私の口から吐き出して、
私に属する人々の群れから除外しますよ」、
と厳しく言われるのです。

2011年11月14日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章7~13節 フィラデルフィアの教会への手紙(その2)

フィラデルフィアの教会への手紙 3章7~13節(その2)

 
神様の教会は敵に対しても福音を伝えます。
それを示しているのが、9節です。
何人かのユダヤ人がクリスチャンになる、とイエス様は約束してくださいます。
キリストの教会こそが、神様の愛する「真のイスラエル」、
神様の民であることを彼らは理解するようになるのです。
 
神様に属する人のこの世における人生は、楽ではありません。
イエス様に従う人は、主のように「十字架の道」を歩みます。
これは、フィラデルフィアの信徒たちも実際に体験したことです。
圧迫を受けた教会には大いなる約束が与えられました。
すなわち、この教会を守ることと、
神様がこの世を裁かれる「最後の日」に御自分に属する人々を救うことを、
イエス様は約束されたのです。
そして、この約束は私たちに対しても与えられているものです。
私たちは、終わりまでイエス様に属し続けさえすれば、
最後の裁きの時に救われるのです。
  
イエス様はフィラデルフィアの教会の信徒たちに、
何が彼らを待っているか、思い起こさせます。
彼らには天国の神殿に自分の場所が用意されています。
彼らは、もはや悲しみも世のわずらいもまったくない場所へと旅を続けているのです。
天国で何が待っているかを覚えれば、天国への旅路を続けていく力を得るものです。
御自分に属する人々を天国の神殿の柱とする、というイエス様の約束は、
ゆるぎない永遠の命をあらわしています。
神殿の柱が神殿から取り除かれ他の場所に移されることがないのと同じく、
天国に入った人々が天国から追放されるようなことも決してありません。
天国に入った人々に授けられた神様の御名は、
彼らが誰に属しているか、よくあらわしています。
彼らは永遠に神様に属しているのです。